鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
大元帥昭和天皇:Emperor Hirohito 2006
Search the TORIKAI LAB Network

Googleサイト内
inserted by FC2 system
◆大元帥昭和天皇伝:Emperor Hirohito

写真(上):1934年6月,東京、千代田、皇居内の道場「済寧館」(さいねいかん)、昭和天皇の天覧試合:1883年竣工した済寧館は、「詩経」大雅文王篇「済々たる多士、文王以て寧し」に因んだ命名、華族、宮内官、皇宮警察官の武道稽古場だった。1933年に建て直された新館は、建坪300余坪、玉座の左右に有栖川宮熾仁親王筆の扁額、横山大観筆の富士山の絵画が飾られた。
English: Emperor Showa in Saineikan 日本語: 済寧館の昭和天皇 Date June 1934 Source English: Japanese magazine "Historical Photograph, June 1934 issue" published by Rekishi-Shasin Kai. 日本語: 歴史写真会「歴史写真(昭和9年6月号)」より。
写真は、Category:Shōwa Emperor by year File:Showa-family1941 12 7.jpg引用。



写真(上):1937年,日中戦争を始めた年の大元帥昭和天皇と皇族の11宮家・伏見宮(ふしみ)、閑院宮(かんいん)、山階宮(やましな)、北白川宮(きたしらかわ)、梨本宮(なしもと)、久邇宮(くに)、賀陽宮(かや)、東伏見宮(ひがしふしみ)竹田宮(たけだ)、朝香宮(あさか)、東久邇宮(ひがしくに):1937年7月7日の盧溝橋事件は「北支事変」から上海事件後には「支那事件」に拡大した。イギリス・アメリカの中国権益を侵害し反発を呼ぶことが危惧されたが、国民党政府の首都南京を攻略し戦争を勝利で終わらせるという侵攻作戦が現地軍主導で強行された。
English: Emperor Hirohito (Emperor Shōwa) and members of the Kyū-Miyake (Cadet Royal Families), estimated around 1937 CE. 日本語: 昭和天皇と旧宮家(1937年頃の推定)。 Date 2 January 1937 Source https://dogma.at.webry.info/201706/article_1.html Author The photographer is unknown
写真は、Category:Shōwa Emperor by year File:Showa-family1941 12 7.jpg引用。

写真(上):1941年12月6日,世界戦争を始める前日の大元帥昭和天皇と良子妃の夫婦の子供たち:大元帥として統帥権・宣戦布告の体験を保持する昭和天皇は、国軍を率いて、アメリカ、オランダ、イギリス、イギリスのドミニオン(自治領)カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国,中国と戦争を始めるという破局的な大戦争を容認した。明日にマレー半島上陸作戦・真珠湾奇襲作戦が開始されることを知っていた大元帥は、始めた大戦争の終戦の目算は、ドイツの勝利、アメリカの厭戦気分ということだったのか。
日本語: 日米開戦前日の昭和天皇一家。 English: The Japanese Imperial Family Date 7 December 1941 Source 日本語: 毎日新聞社「日本の肖像」より English: From "Images of Japan" published by Mainichi Shimbun
写真は、Category:Shōwa Emperor by year File:Emperor-Hirohito-and-Miyake-Cadet-Royal-Families.png引用。

写真(右):1900年10月、明治大帝(1852-1912)、一条美子(はるこ:昭憲皇太后;1849-1914)、皇太子明宮嘉仁親王(はるのみや よしひと)など「皇室御尊影」:明治天皇には、側室との間に、稚瑞照彦尊、稚高依姫尊、梅宮薫子内親王、建宮敬仁親王、明宮嘉仁親王(第123代大正天皇)、滋宮韶子内親王、増宮章子内親王、久宮静子内親王、昭宮猷仁親王、常宮昌子内親王、周宮房子内親王、富美宮允子内親王、満宮輝仁親王、泰宮聡子内親王、貞宮多喜子内親王と女子が多い。成人に達したのは1男4女の五子のみ。唯一男子が、明宮嘉仁親王、大正天皇。
English: Emperor Meiji and his family Date October 1900 Source http://lcweb2.loc.gov/cgi-bin/query/h?pp/jpd,ils:@field(NUMBER+@band(jpd+02532)) Author Kasai, Torajirō
写真は、Category:Taishō Emperor File:Emperor Meiji and his family.jpg引用。


明治天皇宮崎駿「今、零戦の映画企画があるらしいですけど、それは嘘八百を書いた架空戦記を基にして、零戦の物語をつくろうとしてるんです。神話の捏造をまだ続けようとしている。『零戦で誇りを持とう』とかね。それが僕は頭にきてたんです。子供の頃からずーっと!」
 「相変わらずバカがいっぱい出てきて、零戦がどうのこうのって幻影を撒き散らしたりね。戦艦大和もそうです。負けた戦争なのに」 「戦後アメリカの議会で、零戦が話題に出たっていうことが漏れきこえてきて、コンプレックスの塊だった連中の一部が、『零戦はすごかったんだ』って話をしはじめたんです。そして、いろんな人間が戦記ものを書くようになるんですけど、これはほとんどが嘘の塊です」『CUT』 2013年9月号引用。

読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力肯定、聖断を下した昭和天皇否定、祭政一致独裁政権の創設という本音のようだ。

大正天皇一躍五大洲を雄飛す ◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,日中戦争も詳述しました。ここでは,日中戦争,アジア太平洋戦争も分析しました。

日本建国神話・太古・古代・中世・近代・現代まで、126代の天皇が、男系(父系)直系を基本として即位している。

1 神武天皇 2 綏靖天皇 3 安寧天皇 4 懿徳天皇 5 孝昭天皇 6 孝安天皇 7 孝靈天皇 8 孝元天皇 9 開化天皇 10 崇神天皇 11 垂仁天皇 12 景行天皇 日本武尊 14 仲哀天皇 15 応神天皇 稚野毛二派皇子 意富富杼王 乎非王 彦主人王 26 継体天皇 29 欽明天皇 30 敏達天皇 押坂彦人 大兄皇子 34 舒明天皇 38 天智天皇 志貴皇子 49 光仁天皇 50 桓武天皇 52 嵯峨天皇 54 仁明天皇 58 光孝天皇 59 宇多天皇 60 醍醐天皇 62 村上天皇 64 円融天皇 66 一条天皇 69 後朱雀天皇 71 後三条天皇 72 白河天皇 73 堀河天皇 74 鳥羽天皇 77 後白河天皇 80 高倉天皇 82 後鳥羽天皇 83 土御門天皇 88 後嵯峨天皇 89 後深草天皇 92 伏見天皇 93 後伏見天皇 北朝1 光厳天皇 北朝3 崇光天皇 栄仁親王 貞成親王 102 後花園天皇 103 後土御門天皇 104 後柏原天皇 105 後奈良天皇 106 正親町天皇 誠仁親王 107 後陽成天皇 108 後水尾天皇 112 霊元天皇 113 東山天皇 直仁親王(閑院宮) 典仁親王(慶光院) 119 光格天皇 120 仁孝天皇 121 孝明天皇 122 明治天皇 123 大正天皇 124 昭和天皇 125 明仁(平成) 126 徳仁(令和)

1.大正天皇を父とする皇太子裕仁(ひろひと)親王は、半年間のヨーロッパ歴訪を「生涯の華」と感じていた。良子妃の間に2男5女をもうけ、生物学、化学、軍事、帝王学について、権威者から直接指導を受けたが、大元帥昭和天皇として、日中戦争、太平洋戦争と世界大戦を戦い、国体の精華を達成すること、祖先神を安んずることが使命と心得ていた。

写真(右):1916年,海軍大尉の正装に身を包んだ皇太子裕仁(ひろひと)親王:装飾帯(サッシュ :Sash)、総付き正肩章、袖章、 正剣帯(ベルト)、白色革製手袋を着用。大礼帽(二角帽子・仁丹帽)が右脇きに置かれている。皇太子裕仁親王は、1901年〈明治34年〉4月29日、父・大正天皇(皇太子嘉仁親王)と母・貞明皇后の間に第一皇子として生まれ、1912年(大正元年) 陸海軍少尉、1914年(大正3年) 陸海軍中尉、1916年(大正5年) 陸海軍大尉、1919年(大正8年) 陸海軍少佐、1923年(大正12年) 陸海軍中佐、1925年(大正14年) 陸海軍大佐、1926年(大正15年/昭和元年)12月25日、大日本帝国第124代天皇として即位、即位に伴い少将・大将を飛び級し、1926年(昭和元年) 陸海軍大元帥となった。1989年〈昭和64年〉1月7日崩御。
English: Hirohito as crown prince of Japan, 1916. Español: Hirohito, príncipe heredero de Japón, de visita en Gran Bretaña, 1916. Source https://archive.org/details/nsillustratedwar03londuoft ; Possible copyright status: NOT_IN_COPYRIGHT Author London Illustrated London News and Sketch, "Photo Chugai Photographic correspondence agency"
写真は、Category:Prince Hirohito in 1921 File:CrownPrinceHirohito--nsillustratedwar03londuoft.jpg引用。


昭和天皇は,明治34年4月29日,大正天皇の第1皇男子として東京・青山の東宮御所でご誕生。御名は裕仁(ひろひと),称号をみちの宮(みちのみや)と称された。明治45年7月30日,明治天皇の崩御により裕仁親王は皇太子に即位。

明治政府は1909年(明治42年)、天皇の即位などに関する皇室令「登極令(とうきょくれい)」を定め、大正即位礼を執行した。皇室典範第11条「即位ノ礼及大嘗祭ハ京ニ於テ之ヲ行フ」の規定で、即位礼の会場は京都御所となった。

大正天皇の即位の礼、大嘗祭(だいじょうさい)と一連の儀式を合わせた「御大礼(ごたいれい)」は、早稲田大学総長・大隈首相が取り仕切った。14歳の少年昭和天皇も参列した。皇族、国会議員など国内の代表に加え、米、英、仏、露、伊などの大使、公使ら外国代表を含め、計2000人余も参列した。

写真(右):1921年5月15日,イギリス、ロンドン近郊のクロウフォードで、イギリス首相ロイド・ジョージ(Lloyd George:1863年1月17日ー1945年3月26日)ら会った皇太子裕仁親王(Michi-no-miya Hirohito/Emperor Shōwa):皇太子裕仁親王は、半年間の西ヨーロッパ諸国の歴訪を大いに楽しんだ。訪問ロイド・ジョージは、イギリスの自由党の有力政治家で、社会保障制度の構築に尽力するとともに、第一次世界大戦中の1916年12月、首相に就任、総力戦体制を構築して、イギリスを勝利をもたらした。戦後のパリ講和会議では、ヴェルサイユ体制の構築によって、ヨーロッパ大陸におけるドイツの封じ込めを実現し、1921年にはアイルランドを自治領として独立を認めている。
ロンドン近郊のクロウフォードで、英国首相ロイド・ジョージ(Lloyd George)らと会う皇太子裕仁親王(Michi-no-miya Hirohito/Emperor Shōwa)。 Date 15 May 1921 Source 朝日新聞社「週刊20世紀 皇室の100年」 English: From "Images of Japan" published by Mainichi Shimbun
写真は、Category:Prince Hirohito in 1921 File:Crown Prince Hirohito and Lloyd George 1921.jpg引用。


大正の即位礼の後、皇太子裕仁親王は、東宮御学問所における学課を修了され、1921年(大正10年)2月28日、東宮御学問所修了式が行われた。そして学びの集大成として1921年大正10年3月3日から9月3日まで6か月間,西ヨーロッパ諸国を訪問した。3月3日、横浜港に参集した原敬内閣総理大臣らのもと出発式が行われ、午前11時30分、皇太子裕仁親王御召艦「香取」と供奉艦・旗艦「鹿島」からなる遣欧艦隊が出港した。

1921年3月10日午前8時、裕仁親王の一行はイギリス領の香港、3月18日午前8時、英領シンガポール、3月28日、セイロン島コロンボ、3月15日イギリス領エジプトのポートサイド、3月24日マルタ島、30日ジブラルタルに到着。5月7日午前11時10分、イギリスのワイト島に到着、1921年5月9日午前8時50分、ポーツマス軍港に到着し、午前10時10分にプリンス・オブ・ウェールズエドワード王太子(後のエドワード8世国王)が「香取」に乗船した、外遊先は、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアの西ヨーロッパ5か国である。皇太子を訪問した。

写真(右):1923年9月3-13日頃,摂政宮殿下皇太子裕仁親王の関東大震災の震災地御視察:大阪毎日1923年9月15日発行『関東震災画報』に掲載。皇太子裕仁親王は、半年間の西ヨーロッパ諸国の歴訪の帰国後に摂政に就任し、大正天皇の代わりに国事行為を執行した。震災直後に、朝鮮人(鮮人)への暴行、社会主義者(主義者・アカ)の虐殺が起こったことは既知だったであろうが、どのように考えたのか。主権者たる天皇の沙汰は出ていない。
日本語: 摂政宮殿下の震災地御視察 English: H. I. H. the prince regent visiting ruined districts. HIH the Prince Regent taking a view of front street from the quay at Yokohama.
Date Published on September 15, 1923
Source 日本語: 関東震災画報 English: Earthquake Pictorial Edition ; Original file: File:HIH the Prince Regent taking a view.jpg
Author 日本語: 大阪毎日 English: Osaka Mainichi ; Restored by ZooFari
写真は、Category:Prince Hirohito in 1923 File:HIH the Prince Regent taking a view 2.jpg引用。


1923年(大正12年)9月1日12時前に発生した関東大地震では、被災し破壊された家屋37万2659棟、死者行方不明者10万5385人を出す大きな被害を受けた。特に、発生した火災による被害は甚大で、被服廠跡など大火災は、により、犠牲者の9割以上が火災によるという。皇族からも、寛子女王(閑院宮載仁親王第四王女)が小田原・閑院宮御別邸で、師正王(東久邇宮稔彦王第二王子)が藤沢の別荘で、佐紀子女王(山階宮武彦王妃)が鎌倉の山階宮別邸で家屋倒壊により死亡している。

写真(右):1923年9月3-13日頃,摂政宮殿下皇太子裕仁親王の関東大震災の震災地御視察:大阪毎日1923年9月15日発行『関東震災画報』に掲載。皇太子裕仁親王は、半年間の西ヨーロッパ諸国の歴訪の帰国後に摂政に就任し、大正天皇の代わりに国事行為を執行した。震災直後に、朝鮮人(鮮人)への暴行、社会主義者(主義者・アカ)の虐殺が起こったことは既知だったであろうが、どのように考えたのか。主権者たる天皇の沙汰は出ていない。
日本語: 摂政宮殿下の震災地御視察 English: H. I. H. the prince regent visiting ruined districts. HIH the Prince Regent viewing devastated Yokohama from the site of the burned Yokohama Specie Bank Club. Date Published on September 15, 1923 Source 日本語: 関東震災画報 English: Earthquake Pictorial Edition Author 日本語: 大阪毎日 English: Osaka Mainichi
写真は、Category:Prince Hirohito in 1923 File:HIH the Prince Regent viewing devastated Yokohama-restored-sepia.jpg引用。


関東大地震の混乱の中で、内務省警保局、警視庁は、放火し暴動を起こす朝鮮人を警戒することを命じ「鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし」と通知した。大震災後の混乱、治安の悪化の中で、警察と民間人を組織した自警団によって、朝鮮半島出身者に対する暴行・殺傷事件が起き、数百名から数千名が殺害されたようだ。

また、社会主義者や自由主義屋による反政府活動を弾圧する好機とみた陸軍は、甘粕大尉らの憲兵隊の一隊が、社会主義者の大杉栄・伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らを殺害した。これが大杉事件である。また、亀戸警察者に捕まっていた労働運動指導者・平澤計七ら13人を署内で習志野騎兵第十三連隊に殺害された。


写真(右):1924年3月,ご成婚の時の皇太子裕仁親王と良子妃:皇太子裕仁親王は、1912年年(大正元年)9月9日、11歳で少尉に任官、陸軍の近衛歩兵第一連隊附と海軍の第一艦隊附となる。1914年3月、学習院初等科卒業、第一次世界大戦中の1915年4月、日露戦争時の連合艦隊司令長官東郷平八郎大将が総裁を勤めるの東宮御学問所に入学。1915年10月、14歳で中尉、1916年10月に15歳で大尉に昇任。1915年11月3日、立太子礼を執行、皇太子に即位。1918年1月、久邇宮邦彦王の第一女子、良子(ながこ)女王が皇太子妃に内定。1919年、満18歳の5月7日に成年式、帝国議会貴族院皇族議員に就任。1920年10月、19歳で少佐、11月4日には大正天皇の名代として陸軍大演習を統監。1921年2月28日、東宮御学問所修了式、その後1921年3月3日から9月3日までイギリスを、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアのヨーロッパ5か国歴訪の旅に出る。
English: 皇太子裕仁親王(Crown Prince Hirohito/Emperor Shōwa)と良子妃(Nagako/Empress Kōjun)の成婚記念写真
Date March 1924 Source 毎日グラフ「崩御 昭和天皇」
写真は、Category:Prince Hirohito in 1924 File:Crown Prince Hirohito & Princess Nagako 1924.jpg引用。


皇太子裕仁親王は、帰国後,1921年11月25日から、病の大正天皇を助け二十歳で摂政に就任。

皇太子裕仁親王攝政ニ任ス
朕久キニ亙ルノ疾患ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルヲ以テ皇族會議及樞密顧問ノ議ヲ經テ皇太子裕仁親王攝政ニ任ス茲ニ之ヲ宣布ス
御名御璽
攝政名
大正十年十一月二十五日
宮 内 大 臣 子爵牧野伸顕
内閣総理大臣 子爵高橋是清


写真(右):1924年1-3月,ご成婚の時の皇太子裕仁親王と良子妃:香淳皇后(こうじゅんこうごう)となる良子妃は、父:久邇宮邦彦王、母:邦彦王妃俔子夫妻の第一女子。1907年(明治40年)9月、学習院女学部幼稚園入園。 1909年(明治42年)、学習院女学部小学科入学。 1915年(大正4年)、学習院女学部中学科入学。 1918年(大正7年)1月14日、皇太子裕仁親王の妃に内定。 1924年(大正13年)1月26日、皇太子裕仁親王と成婚(皇太子妃冊立)。2000年(平成12年)6月16日、皇居・吹上大宮御所にて崩御。97歳没。
Emperor Hirohito and Empress Kōjun.A photograph just after marriage. Date 1924, possibly January 24th the day of their wedding. Source www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tennousyasinn.htm
写真は、Category:Prince Hirohito in 1924 File:Emperor Hirohito and empress Kojun of japan.JPG引用。


1924年大正13年1月26日,久邇宮邦彦(くにのみや くによし)王の第1女子良子(ながこ)女王と結婚。良子(ながこ)女王は、1903年3月6日生まれ、皇族の久邇宮家の出身で、良子女王(ながこじょおう)」と呼ばれていた。1918年(大正7年)1月14日、久邇宮良子女王が学習院女学部中学科に在学中の14歳の時に、当時16歳だった皇太子裕仁親王との婚儀が内定した。大正天皇の妻・貞明皇后が気に入ったこと、明治天皇が久邇宮家を評価していたことがその理由である。そして、1920年(大正9年)5月7日に、裕仁親王が立太子礼を執り行い、6月10日に正式に婚約がきまった。

しかし、1921年に入って良子女王の母・邦彦王妃俔子は旧薩摩藩藩主の公爵・島津忠義の娘であったことからに、色盲には遺伝があり、皇太子妃として不適当として、長州藩出身の元老・山県有朋が久邇宮家に婚約辞退を迫った。これが、「宮中某重大事件」という政争である。しかし、内閣総理大臣原敬、宮内省、裕仁親王本人が、婚約解消を拒んだため、婚儀は遅れたが、1924年(大正13)1月26日、成婚となった。

昭和天皇と良子皇后との間には、東久邇成子(照宮成子内親王てるのみや しげこ)、久宮祐子内親王(ひさのみや さちこ:夭折)、鷹司和子(孝宮和子内親王たかのみや かずこ)、池田厚子(順宮厚子内親王よりのみや あつこ)、明仁(継宮明仁親王つぐのみや あきひと → 第125代天皇 → 上皇)、常陸宮正仁親王(義宮正仁親王よしのみや まさひと)、島津貴子(清宮貴子内親王すがのみや たかこ )の2男5女の七子がある。

写真(右):1928年11月19日,『タイム』Timeの表紙を飾った11月10日の即位の大礼をした大日本帝国元首・大元帥・昭和天皇:。1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇の崩御を受け葉山御用邸において践祚して第124代天皇として「大正(たいしょう)」から「昭和(しょうわ)」に改元。同時に、大佐から飛び級で国軍最高司令官の大元帥に昇進。1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執行。1928年(昭和3年)3月8日、第二皇女(第2子)久宮祐子内親王が夭折。9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。11月10日、京都御所で即位の大礼。11月14-15日、大嘗祭。
English: Hirohito on the Time Magazine Cover for November 19, 1928
Date 19 November 1928 Source Time Magazine Author Time Magazine
Permission (Reusing this file)
Time failed to renew the copyrights of many early issues
写真は、Category:Emperor Hirohito in 1928 File:Hirohito - Time Magazine Cover - November 19, 1928.jpg引用。


1926年(大正15年昭和元年)12月25日、父大正天皇が崩御。皇太子裕仁親王は、葉山御用邸において践祚(せんそ)し大日本帝国第124代天皇として即位。「大正(たいしょう)」を「昭和(しょうわ)」と改元、それまで陸軍と海軍の大佐の階級にあった皇太子は、天皇即位に伴って、統帥権の頂点に立つ大元帥となった。1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執行。

1928年(昭和3年)3月8日、第二皇女(第2子)久宮祐子内親王が夭折。1928年6月、中国満州の鉄道警備部隊の関東軍が、東北の軍閥張作霖をの乗った列車を爆破、暗殺する張作霖爆殺事件が起きた。9月14日、赤坂離宮から宮城に居を移す。1928年11月10日、京都御所で即位の大礼を挙行。11月14-15日、大嘗祭を挙行。天皇は、国家神道(しんとう)の最高宗教指導者である。

皇太子裕仁親王は、第124代の天皇に即位。父大正天皇の喪に服した後、1928年(昭和3年)11月,京都御所で皇太子裕仁親王の即位の礼、大嘗祭の大礼が執行された。皇太子裕仁親王は、昭和天皇のことである。

写真(右):1931年5月11日,東京、東京帝国大学航空研究所に臨幸した昭和天皇。左端は、斯波所長。:東京帝国大学航空研究所が開発した単発機の航研機は、長距離記録用専用機で、1938年5月13日より3日間の間、銚子・太田・平塚・木更津の三角周回飛行を29周,62時間22分49秒の長時間飛行をし、航続距離1万1,651kmの世界記録を達成した。航研機の発展型A-26は、日本戦時中のため公認はされなかったものの,無着陸で1万6,435kmを飛び,世界記録を塗り替えている.高速機の研三は、1943年12月27日、第31回の試験飛行で最高時速699.9?と日本の最高速度記録を達成した。ドイツへの戦時連絡飛行(セ号飛行)に、A-26(軍用型キ77)2号機が用いられることになった。日本とは中立関係にあったソ連を刺激しないために、A-26 長距離機は、昭南(シンガポール)経由のドイツ連絡飛行に飛び立った。6月30日、長友飛行士ら5名の朝日新聞航空部クルーと陸軍将校3人を乗せた2号機は福生飛行場を離陸、7月7日に中継地の昭南から一挙にドイツを目指したが、途中で行方不明になった。A-26(軍用型キ77)1号機は、1944年(昭和19年)7月2日、小俣寿雄機長、田中久義操縦士 以下計6名搭乗により、新京 - ハルビン - 白城子の三角コースを、57時間12分で16,435km飛行し、周回航続距離の未公認の世界記録・速度記録を達成している。
日本語: 昭和天皇の東京帝国大学航空研究所臨幸(左端が斯波所長)
Date 11 May 1931 Source 富塚 清「航研機―世界記録樹立への軌跡」三樹書房 2010年2月1日発売
Author Unknown author
写真は、Category:Emperor Hirohito in 1931 File:Syowa emperor arrival at the University of Tokyo.png引用。


1918年(大正7年)4月1日、東京帝国大学航空学調査委員会が東京帝国大学附属航空研究所となる。1930年(昭和5年)、目黒町駒場の農学部跡地に拡張、移転した。敷地は17000坪、建坪4000坪。1932年から1942年まで和田小六所長の下で、長距離機の航研機,航二,高速機の研三,世界最長飛行記録を樹立したA-26が生まれた。

1931年(昭和6年)9月18日22時過ぎ、中国東北地方の大都市奉天(現・瀋陽)郊外、柳条湖の南満州鉄道が、日本軍の満州鉄道警備部隊の関東軍によって爆破された陰謀事件、すなわち柳条湖事件が起こった。南満州鉄道は、日本権益の日本人経営の国策会社であり。これを中国軍が爆破したとされたが、当時の日本政府でさえ、これは関東軍の陰謀ではないかと疑っていた。関東軍は、鉄道爆破を中国東北地方の軍閥張学良隷下の東北軍による破壊工作とみなし、直ちに満州全土を鎮圧するために軍を出動させた。そこで、現地中国軍と武力衝突が生じ、それが満州事変(九一八事変)である。

写真(右):1933年1月8日,東京代々木練兵場、昭和8年陸軍始観兵式に馬上親臨された大元帥昭和天皇:陸軍始(りくぐんはじめ)とは、毎年1月8日に行われた大日本帝国陸軍の仕事始めで、東京代々木練兵場で天皇臨席による観兵式が実施される。ここに参加できない全国各地の師団は、軍団長、師団長が参加する閲兵式が行われた。歩兵、騎兵、砲兵、戦車連隊、飛行戦地などが参加し、兵士と兵器のパレードが見ものだった。他方、陸軍の観兵式は、陸軍初だけでなく、天長節、あるときに行われていた。
日本語: 摂政宮殿下の震災地御視察
Description English: 1933 Imperial Japanese Army Parade
日本語: 昭和8年陸軍始観兵式 Date February 1933
Source English: Japanese magazine "Historical Photograph, February 1933 issue" published by Rekishi-Shasin Kai. 日本語: 歴史写真会「歴史写真(昭和8年2月号)」」より。 Author Unknown author
写真は、Category:Prince Hirohito in 1933 File:1933 Imperial Japanese Army Parade.jpg引用。


1931年10月8日、関東軍の爆撃機12機は、張学良の拠点、天津に近い遼寧省錦州を爆撃した。この錦州爆撃は、中国に利権を持っていた列国にも衝撃を与え、大元帥昭和天皇も、陸軍・関東軍の専横に懸念を示した。しかし、関東軍は錦州に向けて進軍し、犬養毅首相は大規模戦闘を恐れて、張学良に錦州撤兵を要請した。張学良は、撤兵し、1932年1月3日、日本軍は錦州を占領した。

写真(右):1922-1923年頃、清朝皇帝宣統帝・愛新覚羅溥儀と皇后の婉容:1908年、光緒帝とその母・西太后が亡くなると、旧暦11月9日、満三歳に満たない溥儀が清朝第十代皇帝・宣統帝として即位した。1911年、孫文らの武漢蜂起、辛亥革命によって、1913年2月12日、宣統帝溥儀は、袁世凱により退位を余儀なくされ、2月22日、皇帝を退位したものの、紫禁城に滞在し続け、毎年400万両の経費を支給された。しかし、溥儀にとって、267年続いた清朝を滅亡させたという思いは後に皇帝として返り咲くという強い願望に転化した。孫文を臨時大総統として中華民国臨時政府が南京に誕生したが、軍閥袁世凱が大総統に就任して実権を奪った。1906年11月13日生、婉容は、満州正白旗出身だが、天津のミッション・スクールでアメリカ人イザベル・イングラムから教育を受けた、溥儀は、1922年12月、17歳で、婉容を皇后ににした。当時、溥儀もイギリス人レジナルド・ジョンストンの教育を受けていた。二人は英語名「ヘンリー」溥儀と「エリザベス」婉容も持っているが、ともには阿片の習慣中毒になってしまう。溥儀は、執政として2年間即位した後、1934年3月1日に皇帝に即位し、婉容は皇后に即位した。
English: Puyi, last emperor of China, with his consort Wan Rong, last empress of China.
Date Unknown date Source http://blog.sina.com.cn/k9476 Author Unknown photographer
写真は、Category:Pu Yi File:溥仪和婉容.jpg引用。


日本による満州簒奪に、日本の天津租界に避難していた清朝の最後の皇帝・ラストエンペラー、宣統帝愛新覚羅(あいしんかくら)溥儀(ふぎ)は、希望を持った。満洲に清朝を復興、復辟(ふくへき)すると思いから、日本軍の甘言に乗り、1931年11月には旅順の日本軍の元に脱出していた。 清朝の皇帝を強圧的に退位させられた 溥儀は、その屈辱を忘れず、再び大清帝国皇帝に復位、すなわち復辟(ふくへき)することを夢見ていたのである。

愛新覚羅溥儀の妻、婉容(えによう)皇后は、籍属満州正白旗出身だが、天津のミッション・スクールでアメリカ人イザベル・イングラムから教育を受け、17歳で清朝皇帝。溥儀の皇后となった。当時、溥儀もイギリス人レジナルド・ジョンストンの教育を受けていた。二人は英語名「ヘンリー」溥儀と「エリザベス」婉容も持っているが、ともには阿片の習慣中毒になってしまう。溥儀は、執政として2年間即位した後、1934年3月1日に満州帝国皇帝に即位し、婉容(Wanrong)は皇后に即位した。しかし、アヘン中毒で、公務からは排除され、日本敗戦後、満州に進駐してきた中国共産軍・八路軍に逮捕され、1946年6月20日、不遇のうちに死亡。

しかし、補佐する管理も警護する軍隊も持たずに、日本軍の下に身を寄せれば、それは亡命と同じであり、日本軍の傀儡になるしかない。にもかかわらず、愛新覚羅溥儀(aisin gioro pu i)は、皇帝の人望で、清朝の復興を待ち望んでいる有力者、民衆が多数あると誤解していたのである。


1935年1月22日、第67回帝国議会で、広田弘毅外務大臣は、中国が「速ニ其安定ヲ恢復スル一方、 東亜ノ大局ニ覚醒シ、帝国ノ真摯ナル期待ニ合スルニ至ラムコトヲ衷心ヨリ 希望シテ」善隣外交を進めて、「東亜ノ 安定力タル地位」を確立することを望むと述べた。このような日中親善工作を進める一環として、1月21日、日本の南京総領事須磨弥吉郎と中国の行政院長・外交部長汪兆銘とが会談を持った。

1935年1月の日中会談では、日本は満州国が勢力圏に入ったことを前提に、
(1)排日および排日貨(日本商品ボイコット)の根絶、
(2)不逞鮮人(反日朝鮮人)の引渡と策動阻止、
(3)外国の顧問・教 官の招聘、武器購入、資本輸入の停止と日本との合作の実行、
の3点を提案した。

これに対して、中国側汪兆銘は、問題は
(1)満洲の主権・独立承認、
(2)ソ連の外蒙古・新疆方面への進出と赤化(共産主義化)、
にあるとした。汪兆銘は、 ソ連の脅威を喧伝して中国世論から日本の満州占領の問題を相対化しようと画策したが、同時に、日本との協力関係を維持するために、ソ連や中国共産党の策謀に対抗し、共産党の影響力を排除しようとする日中が連携した「共同防共」を進めようとした。

写真(右)1935年,中国国民党蒋介石(Chiang, Kai-shek, 1887-1975)総統と蒋介石夫人の宋美齢(Chiang, May-ling Soong, 1897-2003):宋美齢は、アメリカではマダム・チャン(Madame Chiang)として有名。1917年にアメリカのウェルズリー大学を卒業し、英語に堪能だった。浙江財閥の総三姉妹の末っ子であるが、1927年、30歳の時に蒋介石と結婚した。
Description: This is a postcard photograph of General and Madame Chiang Kai-shek. Date: ca. 1935 Related Collection: Frank N. Roberts Papers ARC Keywords: Armed forces officers HST Keywords: People Pictured: Chiang, May-ling Soong, 1897-2003; Chiang, Kai-shek, 1887-1975 Rights: As far as the Library is aware, this item can be used freely without further permission.
写真はHarry S. Truman Presidential Library & Museum Accession Number: 2017-539引用。


1933年5月31日、塘沽停戦協定で満州の主権が中国にあるか日本・満州国にあるかとの議論は顕在化しなくなったが、 満洲問題は日中間の最大の懸案事項だった。

1935年1月の有吉明公使との会談でも、汪兆銘は、柳条湖事件、満州事変後、日本による満州占領が中国人民による排日の要因となったので、日本の中国侵略停止が、日中友好・善隣友好に必要であると当然の要求をした。

中国側は、日本による中国侵略の停止を要望したのに対し、日本側の有吉明公使は、「日支間ノ関係改善ノ為ニハ支那カ排日ヲ熄ムルコトカ 先決問題ナリ」として「現在日本カ支那ニ対シ侵略ノ意図無キコトハ日本政府カ既ニ 数々世界ニ向テ声明セル処」と日本側に中国侵略の意図はないと反駁した。つまり、中国が排日行動を根絶することが先決だと主張した。(内田尚孝(2017)「1935年「華北事変」期における日中外交交渉の再検討 : 「満洲国」問題と「三原則」をめぐる日中間の対立」『同志社大学グローバル地域文化学会紀要』1号参照)

岡田啓介(1868年2月14日生まれ、1952年10月17日没)1889年、海軍兵学校(第15期)卒、日清戦争、日露戦争に軍艦に乗り込み第一線で活躍。第一次世界大戦でも青島攻略戦に従事。1923年、海軍次官、1924年、連合艦隊司令長官、1927年、海軍大臣。1934年、内閣総理大臣となる。1936年の二・二六事件では、首相官邸にいるところを反乱軍に襲撃された。しかし、岡田と似ていた首相秘書官・義弟の松尾伝蔵が身代りに殺害され、本人は女中部屋の押入に隠れて難を免れた。

日本の外務省、陸軍省、海軍省は 1935年10月4日、岡田啓介内閣の閣議で会談し日本の対蒋介石中国外交に関して、次の三原則を打ち出した。
(1)中国は排日活動の取り締まりを徹底し、欧米依存より脱却して、善隣友好・対日親善政策を採用すること、
(2)中国は、満州国の独立を事実上黙認し、満州に接する華北・北支方面においては満州国と経済的、文化的な提携を進めること、
(3)ソ連の影響下にある外蒙よりの共産主義・赤化勢力の脅威を排除するために、日満中三国が協力すること。
 岡田啓介内閣の外・陸・海の三相が合意した政策が、この後、広田三原則の原形となる。

 1936年1月、日本は中国蒋介石政権から華北を分離する「華北五省自治」を進めていた。広田弘毅外務大臣は、1936年1月21日の第68回帝国議会において、中国への広田三原則提示し、これに中国蒋介石総統も同調しているかのような印象を与えた。しかし、中国国民政府蒋介石は、広田三原則を否定し、日本による満州占領、大陸侵略は、日中関係を険悪にすると非難した。

岡田啓介内閣の時代、1936年、二・二六事件が勃発、陸軍皇道派のクーデターにより、元首相高橋是清大蔵大臣、五一五事件の処理をした元首相斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負った。岡田啓介は、二二六事件の責任を取って、内閣総辞職をし、3月、広田弘毅内閣が成立した。この時、駐華大使有田八郎が、帰国して外相に就任した。有田八郎外務大臣は、前任者の「広田三原則」を継承した。そこで、新任駐華大使となった川越茂大使による対中国交渉は頓挫した。

広田弘毅内閣の下で、1936年5月、二・二六事件で予備役となった高級将校を大臣としないように軍部大臣現役武官制が復活した。そして、11月、日独防共協定が締結された。

写真(右):1930年代初頭、褐色の突撃隊の制服のナチ党総統アドルフ・ヒトラーが、制服姿のヒトラーユーゲント(青年団)の子供たちと交歓する。ヒトラー専属の写真家ハインリヒ・ホフマン(Heinrich Hoffmann)撮影、1933年公開。ヒトラーは、1933年1月にヒンデンブルク大統領からドイツ首相に任命されたが、第一次大戦は一塊の兵隊に過ぎず、叩き上げの苦労をした政治家だった。
English: Cropped photo (cigarette card) from page 60: Sächsische Jugend huldigt dem Führer in Erfurt, 1933 (Die nationalsozialistische Jugendbewegung, Hitlerjugend's Deutsches Jungvolk DJ DJV boys, uniforms, Nazi salutes, Adolf Hitler, etc.) Copied from Deutschland erwacht. Werden, Kampf und Sieg der NSDAP, a cigarette card album (Zigarettenbilderalbum, Sammelbilderalbum) with mounted b&w and coloured photos with captions and text, produced by Cigaretten-Bilderdienst Altona-Bahrenfeld, Germany in 1933. The propaganda photos show members, history, activities, events, etc. of the German Nazi Party (Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP) in the 1920s and early 1930s. The production of German cigarette card collector's books/scrapbooks stopped, due to the Second World War, in the early/mid 1940s. The photo studio closed down after the end of the war. See also a PDF version of the book here. Date Album issued c. 1933 Source Image from Deutschland erwacht : Werden, Kampf und Sieg der NSDAP by Wilfrid Bade (1906–1945) and Cigaretten-Bilderdienst, published in Germany 1933.
写真は、Category:Adolf Hitler in 1932 File:Deutschlanderwac00bade 0 0072 Deutschland erwacht Werden, Kampf und Sieg der NSDAP 1933 060 NS Jugendbewegung Sächsische Jugend huldigt dem Führer Erfurt 1933 Hitler DJV HJ Nazi salutes Cigaretten-Bilderdienst USHMM No known copyri.jpg引用。


ドイツのポピュリストで、大衆政治家アドルフ・ヒトラーは、自らナチ党(NSDAP)党首として、党を拡張し、プロパガンダと突撃隊の暴力、調略によって政権を獲得した。その過程で、大衆からの支持を得るために、第一次大戦を敗北に導いたドイツの共和主義者、社会民主党、革命の混乱をもたらした共産主義者・ボリシェビキ、ユダヤ人に対する憎悪を扇動の材料とした。そして、ドイツよ目覚めよ、世界に冠たるドイツを作ると大見えをきった。このような大衆に直接訴え、街頭を支配しようという暴力と扇動的な政治手法が、ファシズムの特徴であるが、それは日本の天皇制下の政治とは異なるものだった。

当時の日本は「天皇制ファシズム」ともいわれるが、代議士・官僚・エリート軍人による集散離合の寄せ集め合議的政治であり、強力なリーダーシップに基づく独裁国家とは言い難い。これは、大元帥昭和天皇に、政治・軍事の実権があるにもかかわらず、専横的な独裁をせず、立憲君主として振舞おうとしたためである。しかし、専制政治でもドイツやイタリアのようなファシズムではないとはいえ、当時の日本が民主主義、自由主義の立憲君主国家ということはできなかった。


2.大元帥昭和天皇は、20世紀という戦争の世紀、大日本帝国の皇族、主権者、大元帥、国民の象徴として、世界で最も有名な日本人だった。その人物を、日本ではどのように評価しているのか、これは日本の歴史評価にも直結する課題である。

写真(右):1934年,東京、千代田九段、靖国神社、陸軍正装で拝殿した昭和天皇と伴の陸軍高官、それを先導した靖国神社の神官:靖國神社臨時大祭委員編 『靖國神社臨時大祭記念寫眞帖』に掲載。当時天皇は、神道最高祭司長であると同時に現人神(あらひとがみ)で軍最高指揮官という三位一体だった。靖国神社では、江戸時代末の戊辰戦争・明治維新で功績をあげた軍人・志士を祭り、その後、戦争で天皇に殉じた軍人・軍属戦死者を英霊として祀るようになった。明治5年に建築の本殿には、2020年現在、246万6千余柱の神霊(みたまが)祀られている。
日本語: 1934年、昭和天皇の靖国神社御親拝 English: Hirohito visit to the Yasukuni Shrine in 1934
한국어: 1934년 야스쿠니 신사를 참배한 쇼와 천황 Date April 1934
Source 《靖國神社臨時大祭記念寫眞帖》 Author 靖國神社臨時大祭委員 編
写真は、Category:Emperor Hirohito in 1934 File:Hirohito visit to the Yasukuni Shrine in 1934.jpg引用。


日本大百科全書(ニッポニカ)
昭和天皇 しょうわてんのう [1901―1989]

昭和天皇玉音放送 昭和天皇は、大正天皇の第1皇子で、皇統譜にいう124代天皇(在位1926~1989)、その在位が昭和の年号で表示される。明治34年4月29日生まれ。母は皇后九条節子(さだこ)、名は裕仁(ひろひと)、幼名は迪宮(みちのみや)。1916年(大正5)立太子のあと、大正天皇の病状悪化のなかで、1921年ヨーロッパ各国を訪問、帰国後の同年11月摂政(せっしょう)に就任した。

1924年久邇宮良子(くにのみやながこ)女王(香淳(こうじゅん)皇后)と結婚。1926年12月、大正天皇の死去により皇位を継承して昭和と改元し、1928年(昭和3)11月即位礼を行う。こののち第二次世界大戦期まで、とくに軍事・外交政策に対してはしばしば独自の判断を示し、戦争指導方針を含む国策決定に関与した。二・二六事件のとき、反乱軍鎮圧を強く主張したことは有名。敗戦時には、内大臣木戸幸一らの進言に沿って、ポツダム宣言受諾を決定した。

1946年(昭和21)元日の詔書で天皇の神格性を否定し(人間宣言)、アメリカの方針によって戦犯訴追を免れる。1947年施行の日本国憲法に基づき、その地位は日本国と日本国民統合の象徴に変わったが、占領期にはマッカーサーとの会見などを通じて、独自の政治的影響力を保持した。戦後は生物学研究者として知られるようになり、編・著書に『相模湾後鰓類図譜』『那須の植物』などがある。1971年ヨーロッパ、1975年にアメリカを訪問した。1986年在位60年記念式典が挙行され、日本史上最長の在位を記録。1989年(昭和64)1月7日死去。追号は昭和天皇。
[赤澤史朗]


写真(上):1936年,日中戦争が勃発する前年の大元帥昭和天皇と良子妃の夫婦の子供たち:昭和天皇と良子皇后との間には、東久邇成子(照宮成子内親王てるのみや しげこ)、久宮祐子内親王(ひさのみや さちこ:夭折)、鷹司和子(孝宮和子内親王たかのみや かずこ)、池田厚子(順宮厚子内親王よりのみや あつこ)、明仁(継宮明仁親王つぐのみや あきひと)、常陸宮正仁親王(義宮正仁親王よしのみや まさひと)、島津貴子(清宮貴子内親王すがのみや たかこ )の2男5女の七子がある。
日本語: 1936年の昭和天皇一家。 English: The Japanese Imperial Family
写真は、Category:Shōwa Emperor by year File:Showa family 1936.jpg引用。


昭和天皇極秘指令 世界大百科事典世界大百科事典 平凡社
昭和天皇 しょうわてんのう 1901-89(明治34-昭和64)

第124代に数えられる天皇。在位1926-89年。名は裕仁(ひろひと),幼名は迪宮(みちのみや)。大正天皇の第一子。母は皇后九条節子(さだこ)。1916年11月立太子礼を行う。21年3~9月ヨーロッパ各国を回り,11月摂政となる。23年12月難波大助に狙撃されたが無事(虎の門事件)。24年1月久邇宮良子(くにのみやながこ)女王と結婚。26年12月大正天皇の死にともない践祚し,昭和と改元する。28年11月天皇即位礼を挙行。

 第2次大戦まで戦争指導に関する最高責任者の地位にあったが,東京裁判において戦争責任を問われることはなかった。46年1月1日に天皇人間宣言(〈新日本建設に関する詔書〉)を行う。同年2月神奈川県をはじめに各地を巡幸。47年11月日本国憲法で,天皇は日本国の象徴とされる。71年には半世紀ぶりにヨーロッパを外遊し,75年アメリカを訪問した。76年11月には日本武道館で天皇在位50年記念式典を行う。戦後は生物学の分類研究にいそしみ,《相模湾産後鰓類(こうさいるい)図譜》《那須の植物》などの編・著書がある。日本史上最長の在位を記録した。
[高橋 彦博]


写真(右):1943年6月24日、ニューブリテン島ラバウル基地からブーゲンビル島へ一式陸攻で視察に行く途上、同島上空でアメリカ軍P-38戦闘機に待ち伏せされ、戦死した山本五十六連合艦隊司令長官の遺骨を載せて横須賀軍港に帰還した戦艦「武蔵」艦上、大元帥昭和天皇の親臨した記念写真:前列左から6人目より、永野修身軍令部総長、木戸幸一内大臣、高松宮宣仁親王、昭和天皇、松平恒雄宮内大臣、嶋田繁太郎海軍大臣、古賀峯一連合艦隊司令長官、百武三郎侍従長。 周囲には、主砲爆風除けの覆いがついた九六式25ミリ三連装機関銃(左)と八九式連装高角砲(右)が並んでいる。改装後には、副砲2基が撤去され連装高角砲6基が増備されるはずだったが、高角砲増備の改造は姉妹館戦艦「大和」だけで、「武蔵」は三連装機関銃の6基の増備に変更された。
English: A photo-op aboard battleship Misashi upon her return to Yokosuka Naval Base with the remains of Isoroku Yamamoto, Commander-in-Chief of the Combined Fleet, who was killed when his plane was shot down over Bougainville Island two months earlier. On the front row, left-to-right from the 6th person: Osami Nagano, Chief of the Imperial Japanese Navy General Staff; Kōichi Kido, Lord Keeper of the Privy Seal; HIH Nobuhito, The Prince Takamatsu; HIM Emperor Shōwa (Hirohiro); Tsuneo Matsudaira, Imperial Household Minister; Shigetarō Shimada, Minister of the Navy; Mineichi Koga, Commander-in-Chief of the Combined Fleet; and Saburō Hyakutake, Grand Chamberlain. Date 昭和十八年六月二十四日 / 24 June 1943
写真は、Category:Emperor Hirohito in 1943 File:島村信政5.jpg引用。


国史大辞典 吉川弘文館
昭和天皇 しょうわてんのう 一九〇一 - 八九

昭和天皇戦後日本 一九二六―八九在位。明治三十四年(一九〇一)四月二十九日午後十時十分、東宮御所に生誕。皇太子明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と皇太子妃節子(のちの貞明皇后)の第一皇子。五月五日明治天皇より裕仁(ひろひと)と命名され、迪宮(みちのみや)の称号を賜わった。七月七日川村純義(枢密顧問官・伯爵)が養育を命ぜられ、三十七年八月川村の没したのち十一月に至って東宮御所に戻るまで、川村邸で過ごした。

四十一年学習院初等科に入学、乃木希典院長の薫陶を受ける。大正三年(一九一四)学習院初等科を卒業。高輪の東宮御所内に東宮御学問所が設立され(総裁東郷平八郎、評議員東京帝国大学総長山川健次郎ら)、そこで選ばれた学友五名とともに歴史を東京帝国大学教授白鳥庫吉、博物学を服部広太郎、倫理学を杉浦重剛ら当代の一流の学者を教師として、以後十年までここで教育を受けた。この間大正五年十一月三日に立太子の礼が行われ、六年一月皇太子妃に久邇宮良子女王が内定された(八年六月公表)。さらに八年には成年に達し、五月七日成年式が行われた。この前後から欧米歴訪や、また大正天皇の病状の憂慮すべき状態による摂政設置が宮中周辺で問題になり始めた。

十年三月に軍艦香取で出発し、イギリスを訪問、英国皇室との親しい関係を作り、七月ナポリを出航するまでヨーロッパ諸国を巡遊、見聞を広めた。これは日本の皇太子の最初の外遊であった。この間、結婚に関して問題が生じていた。良子女王に色盲の系統があるというので、変更を求める動きが元老山県有朋らから出てきて、それに対してまた反対する運動が生じたからである(宮中某重大事件)。しかし結局、洋行出発直前の十年二月に決定通りという発表がなされて問題は決着した。

帰国と同時に摂政就任問題の具体化が進み、同年十一月、皇族会議の議を経て裕仁親王は摂政に任ぜられた。十二年台湾を訪問。年末にアナキスト難波大助による狙撃事件(虎ノ門事件)などもあったが、十三年一月婚儀が挙行された。この前後摂政の周辺は元老西園寺公望、宮内大臣牧野伸顕(のち内大臣、後任は一木喜徳郎)などリベラルなグループによって固められていた。

十五年十二月二十五日大正天皇が崩御し、直ちに裕仁親王の践祚の儀式が行われ元号が昭和と改められた。なおこの時に天皇は一夫一婦制を守ることを表明した。翌昭和二年(一九二七)大正天皇の大葬、三年には京都で即位の御大典が挙行された。

昭和天皇写真集 即位前後に天皇が心痛していたのは、軍部の行動であり、張作霖爆殺事件をめぐっての四年の田中義一首相への厳しい叱責もそうしたことの現れであった。以後も陸軍に対する天皇の疑念は大きく、翌年のロンドン海軍軍縮条約問題(統帥権干犯問題)、さらに六年の満洲事変の際の天皇の行動も、その延長線上にあった。そのため「現状打破」を叫ぶ「革新」派は天皇の側近を「君側の奸」として以後攻撃の対象とした。十一年の二・二六事件はそうした動きの最大のものであり、激怒した天皇はその鎮圧を強く希望した。しかしその前後から天皇の側近は少しずつ交替した。

十二年七月に始まる日中戦争について天皇は拡大方針に躊躇を示し、その後もそのような意見を表明したが、最終的には内閣の決定に従った。十六年の日米開戦にも強い躊躇の態度を示したが、この場合も結局同様であった。二十年八月ポツダム宣言受諾か否かという内閣や軍部内の対立の中で天皇は御前会議で、受諾の意思を表明し、それが最終決定に決定的な役割を果たした。八月十五日の玉音放送は天皇の声を国民が聞いた最初となった。

占領下で天皇大権は連合国軍総司令官のもとに置かれ、同年九月二十七日天皇はマッカーサー司令官を訪問した。その際撮影された、大柄で胸を張ったマッカーサーの脇に並んだ小柄な天皇の写真は国民に大きなショックを与えたが、この時にマッカーサーは天皇の態度に感銘を受けたといわれる。翌二十一年一月一日天皇はいわゆる「人間宣言」を発し(天皇人間宣言)、天皇制廃止を主張する運動勢力の台頭する中、背広・ソフト帽姿で全国各地を巡幸して祖国再建のために働く国民を激励し、また各地で熱烈な歓迎を受けた。

翌二十二年施行された日本国憲法で「国民統合の象徴」と位置付けられた。天皇自身退位の意思を表明したこともあったが、周囲の意見で思いとどまった。その後は象徴としての役割を忠実に果たし、多くの国賓を迎え、昭和四十六年にはヨーロッパ、五十年にはアメリカを、天皇としてははじめて皇后とともに外国を訪問、皇室外交を展開した。

六十二年に慢性すい炎で入院、一時退院したが、翌年倒れて再度入院、六十四年一月七日十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)で崩御。八十七歳。同月三十一日諡号を昭和天皇と定められ、二月二十四日大喪の礼が挙行された。相撲を好み、しばしば観戦に国技館に行幸し、また若い時代から生物学を学び、『相模湾産ヒドロ虫類』など八冊の著書がある。

[参考文献]
宮内省編『明治天皇紀』、大竹秀一『天皇の学校』、『原敬日記』、『牧野伸顕日記』、原田熊雄『西園寺公と政局』、本庄繁『本庄日記』、『入江相政日記』、寺崎英成・マリコ=テラサキ=ミラー編『昭和天皇独白録―寺崎英成・御用掛日記―』、木下道雄『側近日誌』、坂本孝治郎『象徴天皇がやって来る』、同『象徴天皇制へのパフォーマンス』、児島襄『天皇』、同『天皇と戦争責任』、高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます』、藤田尚徳『侍従長の回想』、渡辺克夫「宮中某重大事件」(『日本学園研究紀要』六)、松尾尊兌 「考証昭和天皇・マッカーサー元帥第一回会見」(『京都大学文学部紀要』二九)
(伊藤 隆)

武蔵野陵(むさしののみささぎ)
 東京都八王子市長房(ながぶさ)町の武蔵陵墓地内にある。平成元年(一九八九)一月十一日陵所を大正天皇多摩陵の東側の地に点定。二月二十四日新宿御苑内に設けられた葬場殿において大喪の礼を執り行なった。霊柩はつづいて陵所に遷され即日埋葬、陵号を武蔵野陵と定められた。陵型は上円下方で南面し、兆域は二五〇〇平方メートルで、大正天皇陵と規模を同じくしている。平成二年一月六日に竣成した。
(戸原 純一)

写真(右):2005年6月、東京都八王子市長房町、1989年(昭和64年)1月7日に崩御した昭和天皇の上円下方墳型の陵墓「武蔵野陵」(むさしののみささぎ:昭和天皇陵):大正天皇陵・貞明皇后陵・昭和天皇陵・香淳皇后陵の4陵は、皇室専用の「武蔵陵墓地」に造営されている。
English: Emperor Showa's Imperial mausoleum 日本語: 昭和天皇の陵墓「武蔵野陵」(むさしののみささぎ)
Date 5 June 2005 Source Originally from ja.wikipedia: description page is/was here. Author Original uploader was Stanislaus at ja.wikipedia
写真は、Category:Mausoleum of Emperor Showa File:Musashino-no-misasagi.jpg引用。


武蔵陵墓地は皇室専用の墓地で、大正天皇陵・貞明皇后陵・昭和天皇陵・香淳皇后陵の4陵が造営されている。昭和天皇の父・大正天皇は1926年(大正15年)12月25日に崩御、翌1927年2月7日に新宿御苑で大葬の礼が執行、8日に武蔵野陵に埋葬。武蔵野陵は、1926年10月の皇室陵墓令により元八王子村の御料地内に造営され、1928年1月3日に日枝神社宮司が陵所地鎮祭を執行。

大正天皇陵の北東に位置する昭和天皇の墓所は、「武蔵野陵」(むさしののみささぎ:昭和天皇陵)と呼ばれる。1989年(平成元)年1月17日に陵所地鎮祭が執行され、2月24日に大喪の礼で、造営中の陵所に埋葬。2月27日に「武蔵野陵」と命名、「昭和天皇 武蔵野陵 昭和六十四年一月七日午前六時三十三分崩御 平成元年二月二十四日斂葬」とある。昭和天皇陵の造営に伴い、墓地の名称は「武蔵陵墓地」と改称された。昭和天皇陵「武藏野陵」は、大正天皇陵と同じく、上部2段・下部3段の上円下方墳である。

写真(右):日本降伏直後、1945年11月12日、天皇御服を着用し伊勢神宮へ終戦報告に向かう昭和天皇:戦前・戦中、昭和天皇が、一般国民の面前に現れることはほとんどなく、公開される写真、映像も大礼服や軍服姿など公式の姿に限られていた。これは、報道管制を敷いて、メディアをコントロールしたプロパガンダを行っていたためである。日本敗北後、戦勝国のメディアに日本政府は干渉することが困難になり、アメリカのプロパガンダに依存する姿勢が顕著になった一方で、西側連合国の民間メディアは、天皇を自由に取材しようとしていた。
English: Emperor Showa wearing "Tennno gofuku". 日本語: 天皇御服を着用した昭和天皇 Date 12 November 1945 Source 『アサヒグラフ増刊 天皇皇后ヨーロッパご訪問の旅』(朝日新聞社、1971年)92頁 Author 投稿者が出典雑誌より取り込み
写真は、Category:Emperor Hirohito in 1945 File:Showa emperor wearing tenno gofuku.jpg引用。


昭和天皇 - Wikipediaによれば、著作は次の通り。

著書・論文
『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』(1967年2月、生物学御研究所)
「天草諸島のヒドロ虫類」(1969年9月)
「カゴメウミヒドラClathrozoon wilsoni Spencerに関する追補」(1971年9月)
「小笠原諸島のヒドロゾア類」(1974年11月)
「紅海アカバ湾産ヒドロ虫類5種」(1977年11月)
「伊豆大島および新島のヒドロ虫類」(1983年6月)
「パナマ湾産の新ヒドロ虫Hydractinia bayeri n.sp.ベイヤーウミヒドラ」(1984年6月)
『相模湾産ヒドロ虫類』(1988年8月、生物学御研究所)
『相模湾産ヒドロ虫類2』(1995年12月、生物学御研究所)

投稿・御製歌その他
国立科学博物館『天皇陛下の生物学ご研究』(1988年、国立科学博物館)
宮内庁侍従職編『おほうなばら-昭和天皇御製集』(1990年、読売新聞社、ISBN 4643900954)
宮内庁編『昭和天皇御製集』(1991年、講談社、ISBN 4062046954)


3.1937年7月7日、中国の北京郊外で盧溝橋事件が勃発し、上海でも第二次上海事変が起こると、日本と中国は本格的な戦争に突入する。これが、日中戦争である。これは、日露戦争同様、国軍と政府、陸軍と海軍の連携が必要となるはずで、両者の政略・戦略を調整、戦術面でも陸海軍の連携をとることが求められた。そこで、大本営政府連絡会議が設けられ、主権と統帥権を有するただ一人の天皇、陸海軍の統帥権を有するただ一人の大元帥である昭和天皇が出席、親臨する御前会議が開催された。しかし、8年間に15回開催されたものの、陸海軍の協力関係も、国軍と政府の協力関係も、1937年の日中戦争から、1941年の太平洋戦争、その敗戦までとうとう実現できなかった。

写真(右):1937年1月8月(11月3日?),東京、代々木練兵場、 陸軍始観兵式に愛馬「白雪」号馬上で閲兵する大元帥昭和天皇: 明治19年に、日比谷練兵場に代わる新練兵場として近衛・第一両師団に所属する部隊の教連場となったのが、青山練兵場である。明治20年、明治天皇が初めて近衛兵除隊式を閲兵、以後毎年1月8日の陸軍始の観兵式、11月3日の天長節の観兵式が執行された。
Description 陸軍始観兵式で「白雪」号にまたがり閲兵を行なう昭和天皇。
English: Emperor Hirohito greets from his favorite horse (Tokyo, 1937) Español: El emperador Hirohito saluda desde su caballo favorito (Tokio, 1937) Date 1937 Source AP database. Acreditted by Clarín. Direct link. Author Associated Press (AP)
写真は、Category:Emperor Hirohito in 1937 File:Emperor Hirohito on horseback (1937).jpg引用。


日本では国軍の最高司令官は,大元帥昭和天皇だが、陸海軍を兼ねて統率できるのは、大元帥ただ一人である。大元帥が、陸軍最高司令官も,海軍最高司令官も天皇が兼任していた。日本にはアメリカのような統合参謀本部はなく幕僚長・議長は存在しない。ドイツ軍のような国防軍最高司令部もない。つまり、陸海軍の二つの作戦が,すべて大元帥の下に届けられたのであって、陸軍と海軍はバラバラに組織を構築し、両者は協力関係というよりも、資源・資金、船舶、戦略を巡ってライバル、対抗関係にあった。大本営政府連絡会議や最高戦争指導会議などでは大元帥昭和天皇も親臨する御前会議も開かれたが,陸軍と海軍の作戦は,事実上,別々であった。陸海軍は,航空兵器,爆弾,弾薬,火器、弾薬の規格も,操作方法もまったく異なっていた。

写真(右):1938年1月8日,東京、代々木練兵場、 陸軍始観兵式に愛馬「白雪」号の馬上から閲兵する大元帥昭和天皇:国家主権者、元首、国軍最高司令官、国家神道の最高司祭であり、絶対天皇制といってよいが、昭和天皇自身の自己抑制によって立憲君主制を保っていた。
Description 陸軍始観兵式で「白雪」号にまたがり閲兵を行なう昭和天皇。
Date 8 January 1938 Source 朝日新聞社「週刊20世紀 皇室の100年」
写真は、Category:Emperor Hirohito in 1938 File:Emperor Shōwa Army 1938-1-8.jpg引用。


例えば、陸軍と海軍の飛行機では、エンジンを蒸かすスロットル・レバーを押すか引くかが反対方向だった。航続距離・速力もキロとマイルで異なる単位を使っており、飛行機の操縦・航法・機関整備は、陸軍と海軍で別個の訓練システムを採用していた。
ドイツから日本にとっては最新のダイムラーベンツDB601液冷エンジンのパテントを購入し国産化した時も、陸軍と海軍は別個にドイツと交渉し、陸軍と海軍でロイヤリティーを二重払いしている。その上、エンジンの国産化を命じたエンジンメーカーは、陸軍は川崎、海軍は愛知で、両社は別個に国産化し、エンジン本体も部品も共用できなかった。

陸軍の採用した機関銃用の7.7ミリ弾薬は、薬莢に縁が僅かにあるセミリムドだったが、海軍の採用したイギリス軍ルイス機関銃の7.7ミリ弾薬は、薬莢に縁の付いたリムドだった。つまり、同じ口径の弾丸でも陸軍と海軍の銃弾は共有できなかった。火器自体も、陸軍のアメリカ式ブローニング型12.7ミリ弾丸と海軍の同13.2ミリ弾丸は、後継が異なり、また同じ口径の20ミリ段も、陸軍のホ5機関砲と海軍のスイス・エリコン式九九式20粍機銃は、構造が全く異なり、弾丸も異なっていた。

写真(右):1938年1月11日、第1次近衛文麿内閣の時、大元帥昭和天皇の親臨する御前会議(最高戦争指導会議): 『每日新聞』昭和二十年一月一日號 掲載写真。支那事変処理根本方針を決定。中央、陸軍の軍装の大元帥昭和天皇の右手、奥に海軍軍令部総長・伏見宮博恭王、 手前に1937年2月林銑十郎内閣・1937年6月第1次近衛文麿内閣・1939年1月平沼騏一郎内閣の海軍大臣に就任した米内光政大将が出席。1937年12月、軍令部次長に就任した古賀峰一海軍中将。昭和天皇左手、陸軍参謀総長・閑院宮載仁親王、陸軍大臣・杉山元、1937年8月に参謀次長(翌年8月まで)多田駿(ただ はやお)陸軍中将が出席。
日本語: 最高戦争指導会議(1945年1月1日以前) English: Gozen_Kaigi (Imperial Conference) with Showa Emperor Hirohito (center), Navy officers are seated left while Army officers are seated right. Date before 1 January 1945 Source www.cc.matsuyama-u.ac.jp/ ~tamura/gozennkaigi.htm Author 『每日新聞』昭和二十年一月一日號 / Mainichi Shinbun 1 January 1945 issue
写真は、Category:Emperor Hirohito in 1945 File:Gozen-kaigi 14 August 1945.jpg引用。


写真(右):1938年頃、陸軍参謀総長・閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)元帥(1865年11月10日‐1945年5月20日):1931年末、参謀総長に就任、当時の参謀次長は皇道派から崇拝された真崎甚三郎。第二次大戦中、太平洋戦争開戦1年以上前の1940年10月3日、参謀総長退任、新任は杉山元。1938年1月11日、大元帥昭和天皇の親臨する御前会議(最高戦争指導会議)で、支那事変処理根本方針を、参謀総長として、近衛文麿内閣総理大臣、杉山元陸軍大臣、多田駿(ただ はやお)参謀次長も出席し決定。
閑院宮載仁親王(1865-1945) 出典 http://omugio.exblog.jp/16303812/ 作成日時 作者 宮内省
写真は、Category:皇室関連の画像 ファイル:201306 14 92 a0287992 2172573.jpg引用。


日本の参謀本部とは、1878年(明治11)に、天皇に直隷の陸軍に対する指揮、作戦指導のための軍令を管轄した機関で、その参謀本部の最高責任者が参謀総長である。参謀総長には、陸軍の元帥や大将が就任し、大元帥の天皇から発せられる勅命を配下の部隊に伝達し、天皇から委任・区処された指示を出した。参謀総長を補佐するのが参謀次長で、陸軍中将が就任した。ある。戦時には、海軍軍令部と連携するために国軍最高司令部として大本営を構成した。

日本の国軍は、陸軍と海軍を統合する統合幕僚本部が存在せず、資金、資源、兵器、燃料、輸送船舶、人材から戦略まで対立がひどかった。その上、国軍は、天皇に直属しており、陸軍参謀本部と海軍軍令部という軍の統帥部と政府の行政の中核内閣とは、統合・連携を図る場がなかった。つまり、陸軍と海軍という国軍内部の対立に加えて、国軍と総理大臣を長とする内閣・政府と軍とも対立することが多かった。このような組織上の欠点は、戦争にあって多大な悪影響を及ぼすと考えられる。そこで、欠点を熟知していた日本の最高指導者たちは、陸海軍と政府との協力する場を設けようとしと、大本営政府連絡会議、大本営政府懇談会、最高戦争指導会議などの相互連携会議を開催し、大元帥昭和天皇の親臨を仰いだ御前会議とした。

日中戦争(支那事変)勃発後の1937年11月20日になって、陸海軍を統括する大本営が設置された。しかし、大本営は、軍の統帥の場であり、統帥権の独立を主張する陸海軍は、政府の最高幹部、内閣の参加すら認めなかった。つまり、国軍を指揮する「統帥」と国政をになう「国務」とを兼ねるのは、大元帥昭和天皇ただ一人であり、組織としては存在していなかった。そこで、統帥と国務の連携をはかる場所として、内閣総理大臣近衛文麿は、陸海軍を擁する大本営と内閣を擁する政府の最高幹部が会談する協議体を作ることを計画した。これが、大本営政府連絡会議で、1937年11月24日に第一回会合が行われた。統帥と国務を調整し、戦争指導の一元化するのは、常識のはずだが、日本は戦争を続けていいても、それを避けたまま、陸軍、海軍、内閣が別個に戦略を立て、連携を図すことなく実施していたのである。

写真(右):1938年頃、海軍軍令部総長・伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)元帥(1875年10月16日‐1946年8月16日):軍令部総長伏見宮博恭王は、日独伊三国同盟の海軍の立役者、第二次大戦中、太平洋戦争開戦1年以上前の1940年10月3日、参謀総長退任、後任は永野修身(ながの おさみ)。1938年1月11日、大元帥昭和天皇の親臨する御前会議(最高戦争指導会議)で、支那事変処理根本方針を、参謀総長として、近衛文麿内閣総理大臣、米内光政陸軍大臣、古賀峰一軍令部次長も出席し決定。
閑院宮載仁親王(1865-1945) 出典 http://omugio.exblog.jp/16303812/ 作成日時 作者 宮内省
写真は、Category:Prince Fushimi Hiroyasu File:Prince Fushimi Hiroyasu.jpg引用。


1931年末、閑院宮載仁親王が陸軍の統帥権を預かる参謀総長に就任すると、海軍も1932年2月、博恭王を海軍軍令部長に就任させた。これは、陸軍が皇族を参謀総長に戴くことで、権威を増して海軍が圧迫されるのを防ぐため、同じ皇族を海軍の統帥権を預かる海軍軍令部長に戴いたのである。そして、海軍は、1933年10月、「海軍軍令部」を「軍令部」とし、「海軍軍令部長」から「軍令部総長」に名称変更をさせ、名実ともに陸軍と同格になった。

日本の海軍軍令部とは、1893年(明治26年)に、天皇に直隷の海軍に対する指揮、作戦指導のための軍令を管轄した機関で、その海軍軍令部の最高責任者が軍令部長(後に軍令部総長)である。海軍軍令部は、1933年に軍令部と改称された。軍令部総長には、海軍の元帥や大将が就任し、大元帥の天皇から発せられる勅命を配下の部隊に伝達し、天皇から委任・区処された指示を出した。軍令部総長を補佐するのが軍令部次長で、海軍中将が就任した。戦時には、参謀本部と連携するために国軍最高司令部として大本営を構成した。

しかし、皇族の参謀総長軍令部総長では、国軍の実務を実際に執行するには、専門能力、時間、公務との兼務のため、問題があった。そこで、参謀総長の下の参謀次長、軍令部総長の下の軍令部次長が実務を取り仕切った。 軍令部次長が参謀次長に相当する。この軍令部次長には、高橋三吉、次いで1933年11月、松山茂、1934年1月、加藤隆義、1935年12月、嶋田 繁太郎、1937年12月、古賀 峯一、1939年10月、近藤信竹、1941年9月、伊藤整一、1944年11月、小沢治三郎、1945年5月、大西 瀧治郎が就任した。いずれも任期は1年程度であり、実務を取り仕切るといっても、実際はその部下たちに任せていたのであろうか。

しかし、戦争指導に当たって、国軍と政府の連携は常識であり、重要案件の検討に際しては、大本営政府連絡会議を国権最高指導者の天皇が親臨する御前会議として開催されることになった。

写真(右):1943年9月頃、中国国民政府総統・蒋介石(Chiang Kai-shek)元帥(1875年10月16日‐1946年8月16日):1931年の満州事変で、中国は満州を日本に占領され,さらに1937年7月北京も占領された。こうした中,中国軍民の反日感情は高揚し、中国の軍と政治の最高指導者は、抗日戦争を開始しなければ,中国軍民の支持を失ったはずだ。1937年7月17日、廬山の「最後の関頭」演説で,事実上の対日宣戦布告をする。
English: Chiang Kai-shek 中文: 蒋介石。该照片拍摄于1943年9月。
写真は、Category:Portrait photographs of Chiang Kai-shek File:Prince Fushimi Hiroyasu.jpg参照。


 日中戦争緒戦の近衛文麿政権1938年1月11日の 大本営政府連絡会議は、御前会議として開催され、支那事変処理ニ関スル重要決定」が決まった。

支那事変処理根本方針(御前会議議題)/支那事変処理根本方針(御前会議議題)

帝国不動ノ国是ハ満洲国及ヒ支那ト提携シテ東洋平和ノ枢軸ヲ形成シ之ヲ核心レシテ世界ノ平和ニ貢献スルニアリ

右ノ国是ニ基キ今次ノ支那事変処理ニ関シテハ日支両国間過去一切ノ相剋ヲ一掃シ両国国交ヲ大乗的基礎ノ上ニ再建シ互ニ主権及ヒ領土ヲ尊重シツツ渾然融和ノ実ヲ挙クルヲ以テ窮目途トシ先ヅ事変ノ再起防遏ニ必要ナル保障ヲ確立ズルト共ニ左記諸項ヲ両国間ニ確約ス

(一) 日満支三国は相互の好誼を破壊するが如き政策、教育、交易其の他凡ゆる手段を全廃すると共に右種の悪果を招来する恐れある行動を禁絶すること

(二) 日満支三国は互いに相共同して文化の提携防共政策の実現を期すること

(三) 日満支三国は産業経済等に関し長短相補有無相通の趣旨に基づき共同互恵を約定すること

右の方針に基づき帝国は特に政戦両略の緊密なる運用に依り左記各項の適切なる実行を期す

(一) 支那現中央政府にして此の際反省翻意し、誠意を以て求むるに於いては、別紙(甲)日支講和交渉条件に準拠して交渉す。 帝国は将来支那側の講和条項実行を確認するに至らば、右条件中の保障条項別紙(乙)を解除するのみならず、更に進んで支那の復興発展に衷心協力するものとす

(二) 支那現中央政府が和を求め来らざる場合に於いては、帝国は爾後之を相手とする事変解決に期待を掛けず、新興支那政権の成立を助長し、これと両国国交の調整を協定し、更生新支那の建設に協力す、支那現中央政府に対しては、帝国は之が潰滅を図り、又は新興中央政権の傘下に収容せらるる如く施策す

(三) 本事変に対処し、国際情勢の変転に備え、前記方針の貫徹を期する為、国家総力就中国防力の急速なる培養整備を促進し、第三国との友好関係の保持改善を計るものとす

(四) 第三国の権益は之を尊重し専ら自由競争により対支経済発展に優位を獲得することを期す

(五) 国民の間に事変処理根本方針の趣旨を徹底せしむる様国論を指導す

対外啓発につきても亦同じ

別紙 甲 日支講和交渉条件細目

一、支那は満洲国を正式承認すること

二、支那は排日及び反満政策を放棄すること

三、北支及び内蒙に非武装地帯を設定すること

四、北支は支那主権の下に於いて日満支三国の共存共栄を実現するに適当なる機構を設定し之に広汎なる権限を賦与し、特に日満支経済合作の実を挙ぐること

五、内蒙古には防共自治政府を設立すること、其の国際的地位は現在の外蒙に同じ

六、支那は防共政策を確立し日満両国の同政策遂行に協力すること

七、中支占拠地域に非武装地帯を設定し、又大上海市区域に就きては日支協力して之が治安の維持及び経済発展に当たること

八、日満支三国は資源の開発、関税、交易、航空、交通、通信等に関し所要の協定を締結すること

九、支那は帝国に対し所要の賠償をなすこと

付記

(一)北支内蒙及び中支の一定地域に保障の目的を以て必要なる期間日本軍の駐屯をなすこと

(二)前諸項に関する日支間の協定成立後休戦協定を開始す

支那政府が前記各項の約定を誠意を以て実行し、日支両国提携共助の我方理想に真に協力し来るに於いては、帝国は単に右約定中の保障的条項を解消するのみならず、進んで支那の復興及び其の国家的発展、国民的要望に衷心協力するの用意あり

写真(右):1930年代、中国陝西省、延安、中国共産党毛沢東(もうたくとう:Mao Zedong)主席と妻の江青(こう せい:Jiang Qing):毛沢東(1875年10月16日‐1946年8月16日):は、1933年1月、中国国民党の圧迫を受け、共産党本部を上海から江西省瑞金に移転したが、そこも共産党に反対の立場を明瞭にした蒋介石隷下の国民党軍の攻撃によって終われ、、1934年10月18日、紅軍を率いて「長征」を開始した後、周恩来から実権を奪還し、1936年、陝西省延安に共産党の根拠地を構える。毛沢東は、日本と国民党に対するゲリラ戦を指導したが、1936年12月12日の張学良による蔣介石軟禁の西安事件によって、ソ連の支援を得て、第二次国共合作を結ぶ。紅軍は「国民革命軍第八路軍(八路軍)」となり、1937年からの日中戦争では、日本軍へのゲリラ攻撃を仕掛けた。江青(1914年3月‐1991年5月14日自死)は、山東省出身、1933年に共産党入党、「藍蘋」の芸名で女優となったが、延安に落ちのびた。延安では「江青」として魯迅芸術学院で働き、25歳の時、毛沢東(45歳)と出会い、1939年、毛沢東4番目の夫人となった。第二次大戦勝利後、国共内戦で共産党が勝利し中華人民共和国が勝利すると、毛沢東は最高指導者となった。1966年に始まった文化大革命の扇動者として、党指導力の強化を図ったが、1976年に失脚。1981年、死刑後減刑されたが、病気療養の仮釈放中の1991年に縊死。
English: Young Jiang Qing and Mao in Yan'an in 1930s. Date 1930s Source news.boxun.com/news/gb/china/2008/04/200804171803.shtml Author Unknown author
写真は、Category:Portrait photographs of Chiang Kai-shek File:Young Jiang Qing and Mao3.jpg参照。


近衛の後を継いだ平沼、阿部、米内の3内閣では開催されていない。しかし、近衛文麿が再度首相に就任した第2次近衛文麿内閣の時、2人ぶりの1940年7月27日に、大本営政府連絡会議が開催された。つまり、大本営政府連絡会議は、公式の常駐組織ではなく、事実上、近衛文麿の諮問機関のような位置づけだったので在り、これで戦争指導をしようというのである。しかし、統帥と国務の連携は、常時行われるべきものであり、近衛首相は、1940年11月28日からは、頻繁に軍と政府が連絡をとる会議を開くために、「大本営政府連絡懇談会」として統帥部・軍と国務・政府が連話し合うことになった。そして、第三次近衛文麿内閣の1941年7月21日からは、連絡懇談会の名称を元に戻して、大本営政府連絡会議が定期的に開催されることになった。そして、重要案件として、太平洋戦争開戦の決定などは、天皇親臨(臨席)席の大本営政府連絡会議、すなわち御前会議で決定されたのである。

東條英機内閣では「大本営政府連絡会議」が大元帥昭和天皇が親臨する御前会議として開催された。大本営政府連絡会議とは、日中戦争が本格化した1937年11月に設置。大本営と内閣の協議の場である。1940年11月「大本営政府連絡懇談会」に改称したが、1941年の第3次近衛文麿内閣のとき、再度、「大本営政府連絡会議」に戻された。1944年8月、東条秀樹内閣が倒れ小磯國昭内閣が樹立されると「最高戦争指導会議」に名称変更。しかし、1937年に始まった日中戦争以後の御前会議は、1945年までの8年間に僅か15回しか開催されていない。

1)1938年(昭和13年)1月11日 支那事変処理根本方針 第1次近衛文麿内閣
2 )1938年(昭和13年)11月30日 日支新関係調整方針
3 )1940年(昭和15年)9月19日 日独伊三国同盟条約 第2次近衛文磨内閣
4 )1940年(昭和15年)11月13日 支那事変処理要綱に関する件
5 )1941年(昭和16年)7月2日 情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱
6 )1941年(昭和16年)9月6日 帝国国策遂行要領 第3次近衛文磨内閣 明治大帝の御製「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」を詠み対米戦回避を示唆。
7 )1941年(昭和16年)11月5日 東條英機内閣
8 )1941年(昭和16年)12月1日 対英米蘭開戦の件
9)1942年(昭和17年)12月21日 大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針
10 )1943年(昭和18年)5月31日 大東亜政略指導大綱
11 )1943年(昭和18年)9月30日 今後採るべき戦争指導の大綱
12 ) 1944年(昭和19年)8月19日 小磯國昭内閣
13 )1945年(昭和20年)6月8日 今後採るべき戦争指導の基本大綱 鈴木貫太郎内閣
14 )1945年(昭和20年)8月10日ポツダム宣言受諾の可否について、内閣総理大臣鈴木貫太郎から乞われる形で宣言受諾の意思表明(聖断)。
15 )1945年(昭和20年)8月14日 ポツダム宣言受諾の最終決定 再度、宣言受諾の意思表明(聖断)。


4.1941年12月7日の日本の宣戦布告は,大元帥昭和天皇が発せられた開戦の大詔による。米連邦議会は,日本海軍による真珠湾「騙まし討ち」に怒って,対日宣戦布告を決意した。しかし,それ以前、第二次大戦に中立を標榜した米国大統領ルーズベルトと対ドイツ戦を戦っていた英国首相チャーチルは,1941年8月14日,太平洋憲章によって,領土不拡大,機会均等,恐怖・欠乏からの自由,平和確立を宣言していた。日米開戦直後,1942年1月1日、ワシントンで、米・英など26カ国が署名した連合国共同宣言が出され,国際連合に連なる反枢軸連合が形成された。日本との和平交渉は,日本の降伏まで行われなかった。

真珠湾攻撃の4年以上前,1937年7月の日中全面戦争以降,米国は日本の中国侵略を非難し,1939年7月,日米通商条約を廃棄した。そして,1941年3月,米国は武器貸与法を成立させた。ここでは,「米国の防衛に不可欠と米国大統領が考える国に、船舶、航空機、武器その他の物資を売却、譲渡、交換、貸与、支給・処分する権限を大統領に与えるもの」とした。武器貸与法によって,英国,中国への大規模な信用供与,それに基づく武器輸出が認められた。


「武威燦たり 陸軍始観兵式」紀元2602年(1942年)大東亜戦争第1年目の
兵士2万名、航空機500機、鉄牛(戦車)多数が参加した大元帥昭和天皇親臨式典

1941年7月末-8月初頭,米国は日本資産を凍結し,日本の在米不動産・親友資産を海外に移転できなくさせ,対日石油輸出を禁止した。9月末,対日鉄屑輸出も禁止した。

1941年8月9-13日には,カナダ(英国連邦の一員として対独参戦している)ハリファックス近くで,米英の政府・軍高官による大西洋会談が開催された。ニューファウンドランド島沖アルゼンチアに停泊した米巡洋艦「オーガスタ」艦上から,1941年8月14日,ルーズベルト大統領と英国首相チャーチルは,大西洋憲章Atlantic Charter)を世界に公表した。この米英共同声明「大西洋憲章」は,領土不拡大,国境維持,反ドイツの立場で,次のように謳われている。

写真(左):1941年8月大西洋会談中のルーズベルト大統領とチャーチル首相;英新鋭戦艦「プリンスオブウェールズ」艦上で会談した。米英軍の高官も話し合っている。両者の後ろには,米国陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥が見える。
English: President Roosevelt and Winston Churchill seated on the quarterdeck of HMS Prince of Wales for a Sunday service during the Atlantic Conference, 10 August 1941. The President of the United States, Franklin D Roosevelt, and the Prime Minister of the United Kingdom, Winston Churchill are seated on the Quarterdeck of HMS Prince of Wales. They are chatting following a Sunday service, during the Atlantic Conference, 10 August 1941. Immediately behind them are Admiral E J King, USN and General Marshall, US Army. The President's sons, Ensign Franklin Roosevelt Jr USNR and Captain Elliot Roosevelt USAAF, along with General Arnold, USAAF, Air Chief Marshal Sir Wilfred Freeman RAF are conversing to the left of the image. Date 10 August 1941 Author Priest, L C (Lt), Royal Navy official photographer
写真は Wikimedia Commons, Category:Franklin Delano Roosevelt in 1941 File:President Roosevelt and Winston Churchill seated on the quarterdeck of HMS PRINCE OF WALES for a Sunday service during the Atlantic Conference, 10 August 1941. A4815.jpg引用。


1941年8月14日の大西洋憲章Atlantic Charter
第一、両国は、領土その他の拡大を求めない。
第二に、両国は、国民の自由表明意思と一致しない領土変更を欲しない。
第四、両国は、現存義務を適法に尊重し、大国たると小国たるとを問わず、また、先勝国たると戦敗国たるとを問わず、全ての国に対して、その経済的繁栄に必要な世界の通商および原料の均等な開放がなされるよう努力する。
第六、ナチ暴政の最終的破壊の後、両国は、全て国民に対して、自国で安全に居住することを可能とし、かつ、全て国の人類が恐怖及び欠乏から解放され、その生を全うすることを確実にする平和が確立されることを希望する。


アメリカは,日本に対して強硬な経済制裁を行い,(満州を除く)中国からの日本軍の撤退,日独伊三国軍事同盟の解消を要求してきた。この時点で,日本は米国との和平交渉を諦め,開戦を決意した。近衛文麿内閣の時,1941年9月6日の御前会議で、10月上旬までに対米和平交渉がまとまらない場合,対米英蘭戦争を起こすことを決定した。開戦決定の大権は,大元帥昭和天皇にあり,総理大臣,陸軍大臣,海軍大臣,陸軍参謀総長,海軍軍令部総長は,天皇を大権を決して犯さない忠臣であった。

今日,日本国では,天皇制の擁護者と称する日本人でさえ,天皇や天皇制度を評論する。皇位継承問題に口出しする。女系天皇の問題を論ずる、皇族・旧宮家の復活を要請する、昨今のように、こんな軽々しい,あるいは不敬とも映る行為をするもの、保守でも日本・国体を大切にする人物でもない。たぶん、自分の権威を誇る傲慢な輩である。彼らのように臣下の分限を犯す不敬な発言も行為も、当時の真っ当な日本人には,ありえないことだった。

帝国憲法の第四章「国務大臣及枢密顧問」は次の通り。
第五十五条 1.国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
2. 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
第五十六条  枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス
海軍のハワイ攻撃計画は進んでおり,忠臣たることを信念にしていた東條英機は,対英米戦の準備をしたが,開戦を画策したことはなかった。

開戦を辞さずとした1941年10月上旬,近衛文磨内閣は総辞職。開戦時の内閣となること=戦争責任を回避した。そこで,国体護持,日米和平を重視する昭和天皇の意向を踏まえ,木戸幸一内大臣は、1941年9月6日の御前会議に下した日米開戦の決定を白紙に戻す(「白紙還元の御状」)とし,東條英機陸軍大将を内閣総理大臣に推挙した。東條大将は,近衛内閣の陸軍大臣としては,開戦賛成派であったが,天皇への忠誠心が厚く,天皇の信頼も得ていた。

1941年10月に成立した東條英機内閣は,日米交渉を続けたが,1941年11月8日,真珠湾攻撃を含む「海軍作戦計画ノ大要」が、大元帥昭和天皇に上奏されている。「海軍作戦計画ノ大要」は,真珠湾攻撃を含むもので,海軍軍令部総長永野修身と陸軍の参謀総長杉山元が、侍従武官長宛てに発信した。計画には,海軍軍令部次長伊藤整一と陸軍参謀本部次長塚田功から総務部長、主任部長、主任課長など作戦の中枢部の軍人が名を連ねた。軍の合意を得た後に,大元帥昭和天皇に上奏された。

開戦の問題は,大元帥昭和天皇に軍事の大権,統帥権があるとはいっても,人間であり,神でない以上,大元帥昭和天皇といえども,軍部の意向を無視することはできないということである。制度の上では,天皇の軍事独裁が可能であるが,大元帥昭和天皇の自制,深謀遠慮によって,軍部と正面から対立することは避けていたのである。これは,立憲君主制であるからではない。憲法が天皇の地位を決めたのではなく,憲法は天皇が臣民に与えたものである。立憲君主のように昭和天皇が振舞ったが,それは立憲君主を臣民が要求下からではなく,大御心のなせる業であろう。

写真(右): 1941年10月18日、第一次東條英機内閣の閣僚、大日本帝国首相東條英機陸軍大将と彼の右隣り鈴木貞一国務大臣、左端の嶋田繁太郎海軍大臣、右端の岸信介商工大臣;1941年10月から陸軍大将として,内閣を組織したため,日米開戦の責任者と目された。ドイツのヒトラー,イタリアのムッソリーニと並んで,日本の指導者とされることもある。しかし,東条英機首相には,内閣の任免権も,軍の最高指揮権も,宣戦布告の権利もなく,独裁者というには程遠い存在である。総理大臣,陸軍大臣,海軍大臣,陸軍参謀総長,海軍軍令部総長は,全て大元帥昭和天皇を輔弼するに過ぎない。大権は,大元帥一人だけが保有するものであり,閣僚,議会,軍部もその下にある。体験を持つ天皇を批判することは決して許されることではない。
日本語: 第一次東條内閣の閣僚。前列軍服姿が東條英機首相、彼の右隣りが鈴木貞一国務大臣、左端が嶋田繁太郎海軍大臣、右端が岸信介商工大臣
English: Cabinet minister of the first Tojo Cabinet. Military uniform figure of the front row is the prime minister Hideki Tojo, his right neighbor is the Minister of State Teiichi Suzuki, the left end is the Minister of Navy Shigetarō Shimada, and right end is the Minister of Commerce and Industry Nobusuke Kishi.
Date 日本語: 昭和16年 October 18th, 1941
写真は Wikimedia Commons, Category: Hideki Tōjō File:Cabinet of Hideki Tojo 3.jpg引用。


今日,大元帥昭和天皇は,立憲君主であったとして,大日本帝国憲法の下位に位置づけ,天皇大権を法律が定めた権利に過ぎないように論じる識者も多い。立憲君主天皇を認めるのであれば,憲法がなかった古代からの天皇の地位の確証はないことになってしまう。天皇は,天孫光臨の神話と三種の神器によって,天皇たらしめられているのであって,神勅こそ尊重されるべきである。

大元帥の天皇は,主要閣僚の総意を尊重し、対米英戦,真珠湾攻撃を(不本意かもしれないが)裁可した。12月1日の御前会議では、宣戦布告の意図が、1941年12月7日12時44分(ホノルル時間)以前には知られないように、宣戦布告は東京時間の12月8日午前7時40分(ハワイ時間12月7日午後12時40分)とすることも決められた。

米国は1941年11月26日,満州事変以前の状態への復帰を要求した「極東と太平洋の平和に関する文書」(ハル・ノート)を手渡してきた。これが,ハル・ノートである。その最重要部分は、第二項の「日本国政府は中国及び印度支那より一切の陸海空兵力及び警察力を撤収するものとす。」である。日本が中国占領地(満州は除く余地あり)やフランス領インドシナ(仏印)から撤退することを交渉継続の原則とした。

ハル・ノートが日本に手交された直後,1941年12月1日,天皇、首相,参謀総長,軍令部総長など日本の最高首脳陣が揃って出席した御前会議が宮中で開催された。そして,(国会ではなく)御前会議で対米英戦争の宣戦布告が最終決定された。

写真(右):海軍の軍令部総長永野修身元帥(1880年6月15日ー1947年1月5日巣鴨拘置所で病死):1936年3月9日、広田内閣の海軍大臣、1937年2月2日、連合艦隊司令長官、1943年6月21日、元帥、1941年4月9日-1944年2月21日、海軍軍令部総長。「国策の基準」を策定し,対米戦争準備を始めた。海軍内部で反対の多かったハワイ真珠湾攻撃計画を認可した。1947年東京裁判では日米開戦の責任を問われたが公判中に病死。
OSAMI NAGANO(永野修身) Date 1943年より以前 Source 海よ永遠に・元師大将永野修身の記録掲載写真 Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons, Category:Osami Nagano File:ADMIRAL O.NAGANO.jpg引用。


海軍軍令部とは,陸軍の参謀本部に相当し,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。軍令部も参謀本部は天皇の持つ統帥大権を補佐する官衙である。戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。 陸海軍の総長は,天皇によって中将か大将から任命(親補)される勅任官であり,次長は総長を補佐する御前会議の構成員である。

1941年11月8日海軍作戦計画の上奏文では、フィリピン、マレーに対する先制空襲と同時に、ハワイ停泊中の敵主力艦隊を、航空母艦6隻からなる機動部隊で空襲すると述べた。攻撃地点についても、オアフ島北方200マイルから全搭載機400機を発進して空母、戦艦、航空機を目標として奇襲攻撃を加えると説明している。香港,シンガポール攻略についても述べた。この上奏文は,陸海軍高官が認めた最終攻撃計画であり,開戦予定日(12月8日)のちょうど1ヶ月前に真珠湾攻撃計画も含め,統帥権を有する大元帥昭和天皇に,臣下として報告がなされた。

真珠湾攻撃計画は,連合艦隊司令長官山本五十六が主導したが,無謀な作戦として,反対論が強かった。それを,軍令部総長永野修身が認可した。最終的には陸軍も同意して,天皇が裁可している。ドイツ軍,米軍と違って,日本軍は少数の軍事専門家による創意工夫よりも総意を重視したが,連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の主導した真珠湾攻撃は例外だったようだ。

1940年12月7日0610,ハワイ真珠湾に向けて,日本海軍機動部隊の空母から,第一波攻撃隊が発進した。0740,第一波攻撃隊が真珠湾上空に進入,0755,日本機の攻撃開始。1000,日本機の攻撃終了,1300,日本海軍機動部隊が本国に撤退。

日本軍による真珠湾攻撃によって,戦艦「アリゾナ」,戦艦「オクラホマ」など戦艦5隻が沈没・大破(ただし,上記以外3隻は復旧され戦線復帰)した。戦艦3隻も損害を受けた。また,米国人の死者は2,403名,負傷者は1,178名に達した。

写真(右):1938年7月12日、アメリカ、ワシントンD.C., 、アメリカ国務長官コ-デル・ハル(Cordell Hull:左)とスウェーデン皇太子グスタフ・アドルフ(Crown Prince Gustaf Adolf of Sweden);1941年11月26日日本に中国・インドシナからの撤兵を求める「極東と太平洋の平和に関する文書」(ハル・ノート)を手交した。1943年には連合国四カ国共同宣言 Joint Four Nation Declarationに関わるなど,国連創設に努力した。
English: Title: Corwin Prince meets Sec. of State Hull. Washington, D.C., July 12. Sec. of State Cordell Hull, left; with Crown Prince Gustaf Adolf of Sweden, snapped as the left the dining room of the Carlton Hotel, where Mrs. Hull entertained for the royal couple, the Prince is traveling incognito while in this country, 7/12/38 Abstract/medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Date 12 July 1938 Source Library of Congress Author Harris & Ewing, photographer
写真は Wikimedia Commons, Category:Cordell Hull File:Corwin Prince meets Sec. of State Hull. Washington, D.C., July 12. Sec. of State Cordell Hull, left; with Crown Prince Gustaf Adolf of Sweden, snapped as the left the dining room of the LCCN2016873797.jpg引用。


1941年12月7日午後1時(ワシントン時間)、日本側から米国務省(外務省)に面会の申し入れがあった。面会は午後1時45分とされ、日本側は20分遅刻して午後2時5分に到着した。日本の二人の大使たち(野村吉三郎駐米大使・来栖三郎特命全権大使)は、「ハル・ノート」への回答文書を手渡した。

国務長官ハルは、その場で文書を読んで(事前の暗号解読で宣戦布告を意味するとは分かってはいたが)、不快感をあらわにし,言った。「50年間の公務の中で、これほど恥知らずな文書を,地球上で受け取ったことない」
"----so huge that I never imagined until today that any Government on this planet was capable of uttering them."

日本の駐米大使が米国務長官ハルに英訳に手間取った最後通牒(と日本が認識している文書)を手渡したのは、12月7日午後2時20分(ワシントンの東部時間)で、真珠湾攻撃の終わった後である。これが,「日本の宣戦布告の遅れ」といわれるが,大日本帝国憲法では,宣戦布告の権限は,統帥権をもつ日本軍の大元帥(昭和天皇)がもっている。天皇による宣戦布告の「大詔」は、1941年12月8日午前11時40分(東京時間)と,真珠湾攻撃の半日後に発せらた。

ルーズベルト大統領は,宣戦布告なしの「卑怯な騙まし討ち」として非難し,連邦議会に対日宣戦布告を求める演説を行った。真珠湾攻撃の翌日(米国の1941年12月8日)、ルーズベルト大統領は、Pearl Harbor Address to the Nation「真珠湾攻撃を国民に告げる」として、日本への宣戦布告を議会に求めた。この演説巻頭に「屈辱の日」の表現が使われた。(→演説音声を聞く)。

"Yesterday December 7 1941-a date which will live in infamy-the United States of America was suddenly and deliberately attacked by naval and air forces of the Empire of Japan. "

写真(右):941年12月8日、アメリカ、ワシントンD.C., 、ルーズベルト大統領の1議会演説:Pearl Harbor Address to the Nation.最も成功した「正義の戦争」のプロパガンダ(?)で、これによって連邦議会と世論を参戦に一本化し、人員・資源・技術を戦争のために総動員することが可能になった。以後,連合国は「騙まし討ちをした卑怯なジャップ」に和平交渉をもちかけること一切無かった。事実上,無条件降伏のみを認めたのである。Description 208-PU-168A-1: President Franklin D. Roosevelt addressing Congress on the Declaration of War, December 8, 1941. Office of War Information Collection. (2016/08/30). Date 30 August 2016, 10:21
写真は Wikimedia Commons, Category:Franklin Delano Roosevelt in 1941 File:208-PU-168-A-1 (28721602114).jpg引用。


1941年12月7日0755の真珠湾空襲は、1週間前から決定していた(12月1日の天皇臨席の御前会議で)。ハワイ攻撃を隠すために、偽りの日米交渉を行ってきたと米国は考え,「握手するそぶりをして、後ろに匕首を突き出す」日本を許そうとしなかった。
真珠湾攻撃は,米国人は日本人に対する憎悪を一気に高め,報復(連邦議会による宣戦布告)は正当化された。米国本土に住んでいる日系人を(米国籍を取得していようと),財産没収の上,強制収容所に隔離するのも当然だ---,と米国人は考え,実行する。

日本の最後通牒,すなわち14部のメッセージ"Fourteen Part Message" の最初の部分が、暗号でワシントンの日本大使館に送信されたのは,1941年12月6日(日本時間)であり,最終部分は12月7日(開戦予定日前日)である。つまり,最後のぎりぎりまで,和平交渉の打ち切りは告げず,真珠湾攻撃当日数時間前に,宣戦布告をするつもりだった。これは、真珠湾攻撃のための艦隊行動やマレー半島上陸を目指す輸送船団の動向を,米英に察知されないためである。しかし,宣戦布告の遅延は,「直前まで和平交渉を模索中であると欺瞞して、攻撃意図を隠した」として,米国から非難された。

しかし,米軍の通信隊の「マジック」は,日本の暗号を部分的に解読していた。東京とワシントンの日本大使館あるいは世界各国の大使館や軍への無線通信を傍受し,日本の攻撃が差し迫っていることを理解していた。国務長官コーデル・ハルCordell Hullも,マジック情報によって,日本の大使二人よりも先に,日本の日米交渉打ち切りを知った。しかし,米国民の戦意を高揚し,総動員するためには,真珠湾攻撃は「卑怯な騙まし討ち」であるほうがよい。

真珠湾攻撃の検証;「卑怯な騙まし討ち」を吟味する。

太平洋戦争と欧州大戦に米国が参戦して1ヵ月後,1942年1月1日、ワシントンで、米・英・ソ・豪・加・印・蘭・NZ・パナマ・ノールウェー・ポーランド・南アフリカ共和国・ユーゴなど26カ国が連合国として署名した宣言,いわゆる連合国共同宣言Joint Declaration by United Nationsが出された。

連合国共同宣言 
この宣言の署名国政府は,大西洋憲章the Atlantic Charterとして知られる1941年8月14日付米国大統領並びに英国首相の共同宣言に包含された目的及び原則に関する共同綱領書に賛意を表し、これらの政府の敵国に対する完全な勝利が、生命、自由、独立及び宗教的自由を擁護するため並びに自国の国土において及び他国の国土において人類の権利及び正義を保持するために必要であること並びに、これらの政府が、世界を征服しようと努めている野蛮で獣的な軍隊に対する共同の闘争に現に従事している(a common struggle against savage and brutal forces)ことを確信し、次のとおり宣言する。

(1) 各政府は、三国条約の締約国及びその条約の加入国でその政府が戦争を行っているものに対し、その政府の軍事的又は経済的な全部の資源を使用することを誓約する。
Each Government pledges itself to employ its full resources, military or economic, against those members of the Tripartite Pact and its adherents with which such government is at war.

(2) 各政府は、この宣言の署名国政府と協力すること及び敵国と単独の休戦又は講和を行わないことを誓約する。
Each Government pledges itself to cooperate with the Governments signatory hereto and not to make a separate armistice or peace with the enemies.

 この宣言は、ヒトラー主義に対する勝利のための闘争において物質的援助及び貢献している又はすることのある他の国が加入することができる。
The foregoing declaration may be adhered to by other nations which are, or which may be, rendering material assistance and contributions in the struggle for victory over Hitlerism. (引用終わり)

連合国共同宣言は,1941年8月14日の英米共同の大西洋憲章を基礎にし,日独伊の枢軸国に対して,連合国は,単独不講和・不休戦とし,全資源を投入して戦うことを誓約した。そして,対日独伊戦争勝利こそが「生命、自由、独立、宗教的自由を擁護する」ならびに「人類の権利及び正義を保持するためには不可欠である」と戦争の大義を宣言した。

当初の署名国は,United States of America, the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland, the Union of Soviet Socialist Republics, China, Australia, Belgium, Canada, Costa Rica, Cuba, Czechoslovakia, Dominican Republic, El Salvador, Greece, Guatemala, Haiti, Honduras, India, Luxembourg, Netherlands, New Zealand, Nicaragua, Norway, Panama, Poland, South Africa, Yugoslaviaの26カ国。その後、フィリピン(亡命政府),エチオピア(イタリア占領から解放),イラク(英国支配)など,1945年3月までに,メキシコ,フィリピン,エチオピア,ブラジル,ボリビア,イラン,トルコ,サウジアラビアなど19カ国が追加署名した。

France ......... Dec. 26, 1944br>
真珠湾攻撃から1ヶ月もたたない1942年1月1日の連合国共同宣言 Joint Declaration by United Nationsへの署名は,国際連合の原加盟国の必要条件である。大戦終結までにここに署名した47カ国は,全て対ドイツ,対日参戦した。1945年2月以降に参戦した南米諸国や中東諸国は,国際連合に加盟し,戦後の国際関係を有利にしようとする目的で,対日参戦した。

米国は,反日プロパガンダを大々的に展開し,敵愾心を沸き立たせ,連合国を組織して,(かたちだけではあっても)国際協調の下に,日本軍を殲滅し,降伏させようと決意する。こうした背景から,連合国は,枢軸国へは事実上,無条件降伏を求め,和平交渉を行わない方針を採用した。連合国は,日本,ドイツに和平交渉の提案をするつもりはない。日本が無条件降伏を申し出るか,日本本土が占領されるかしないと,対日戦は終わらない。

5.アジア太平洋戦争の中期の1943年11月下旬,枢軸国の無条件降伏を念頭においていた米英中首脳によるカイロ会談が行われ,その直後に,米英ソ首脳によるテヘラン会談が行われた。カイロ会談では,中国の蒋介石の意向を踏まえて,領土不拡大の原則が支持され,日本の支配地域である満州,台湾などを中国に返還することが定められた。日本の無条件降伏も確認された。テヘラン会談では,ソ連のスターリンが対日参戦の意向を示唆し,英米中ソを“4人の警察官”として戦後の安全保障を目指す国連構想が承認された。1945年2月のヤルタ会談では,ドイツの戦後処理と並んで,ヤルタ協定として,ソ連の対日参戦と日本の領土を本土に限定することが密約された。

写真(右):1943年11月22-26日エジプトで開催されたカイロ会談Cairo Conferenceの三巨頭 "Big Three"と蒋介石夫人・宋美齢(右端):英軍マウントバッテン卿とルーズベルト後方には、蒋介石の下に派遣されていたジョセフ・スティルウェル中将(Joseph Warren Stilwell, 1883年-1946年10月12日)。ジョセフ・スティルウェル中将は、中国国民政府の腐敗ぶりを非難していたため、1945年6月18日、沖縄戦の末期に戦死した第10軍司令官サイモン・B・バックナー中将の後任として、沖縄に転出させられた。カイロでは、蒋介石,ルーズベルト大統領,英首相チャーチルが,対日戦とアジアの戦後処理が話し合った。The meeting was attended by President Franklin Roosevelt of the United States, Prime Minister Winston Churchill of the United Kingdom, and Generalissimo Chiang Kai-shek of the Republic of China. 1943年12月1日に,カイロ宣言がラジオ放送された。
Description English: This photo by Jim Hudson was taken during the Cairo Conference (Nov. 22-26, 1943) between China, UK and USA. From left to right: Generalissamo Chiang Kai Shek, US President Franklin Delano Roosevelt, British Prime Minister Winston Churchill and Madame Chiang Kai Shek served as interpreter. Back row, Chinese Generals Chang Chen and Ling Wei; American Generals
 Somervell, Stilwell and Arnold; and senior British officers, Field Marshal Sir John Dill, Admiral Lord Louis Mountbatten, and Major General Carton de Wiart, VC. Date 1943 Source Source Author US Photographer
写真は Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Cairo Conference (Chiang, Churchill, Roosevelt)1941 File:CairoConferenceParticipants.jpg引用。


1943年12月1日カイロ会談Cairo Conference 1943の概略は次の通り。br>
日本国ニ対スル将来ノ軍事行動協定:三大同盟国The Three Great Alliesハ 海路陸路及空路ニ依リ其ノ 野望ナル敵国ニ対シ 仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ。右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ。

日本国ノ侵略ヲ制止・罰スル:同盟国ハ自国ノ為ニ 何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス。又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス。
        :同盟国ノ目的ハ 日本国ヨリ1914年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ 日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト 並ニ満州,台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ 清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ 中華民国ニ返還スルコトニ在リ。

日本国ハ 暴力・貪慾ニ依リ 日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ 駆逐セラルヘシ。

三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隸状態ニ留意シ ヤガテ朝鮮ヲ自由 且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス。

三同盟国ハ 同盟諸国中 日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ 日本国ノ無条件降伏ヲモタラスニ必要ナル重大 且長期ノ行動ヲ続行スヘシ。

1943年12月1日に公表された「カイロ宣言」(カイロ会議)は、実行に移され、実現した。ソ連の対日参戦,日本への無条件降伏要求貫徹はもちろん,満州,台湾,朝鮮,太平洋諸島は,日本が奪取した“taken by violence and greed”地域と認定され,日本の領土とは認められなかった。1945年の日本降伏後,アジアの情勢は,カイロ会議の公表通りになった。

実際,STRATEGIC PLANNING FOR COALITION WARFARE 1943-1944 by Maurice Matloff ;Cairo-Tehran A Goal Is Reached: November - December 1943から,カイロ会談の経緯を見ると,決して中国,米国,英国の利益が一致したわけではなく,各国が自国に有利な戦略を採用させたがった。その妥協の産物として,対アジア戦略,対日戦争方針が定められた。

1943年11月22日早朝,カイロに到着したルーズベルト大統領は,数日前に到着していた蒋介石総統Generalissimoと夫人の宋美麗にあった。ホテル「メナ・ハウス」Mena Houseで, 軍人も交えた会談を行った。 米軍からは,中国方面陸軍司令官スチルウェルGenerals Stilwellと航空部隊司令官シェーンノートChennaultが,英軍からはマウントバッテン卿Lord Louis Mountbatten,アジア方面連合国司令官the Supreme Allied Commanderとしてウィデマイヤー将軍General Wedemeyerが参加した。米英側は,11月22-26日の間全て出席したが,中国側は,その全てに参加したわけではない。11月23日に,中国側と米英側が会談したが,24日は中国側は出席していない。

米国は,数ヶ月以内にベンガル湾を超えた作戦を実施すること,中国陸軍90個師団の兵員,装備を整備すること,月1万トンをヒマラヤ山脈the Hump越えで,中国に輸送することを約束した。

つまり,米英中は,自国に有利となる戦線を重視しており,決して一枚岩の団結を誇っていたわけではない。1943年11月22-26日のカイロ会議では,各国が妥協しながら,アジア戦略を練っていた。STRATEGIC PLANNING FOR COALITION WARFARE 1943-1944 by Maurice Matloff参照)

写真(右):1943年11月28日-12月1日,テヘラン会談;ビッグ・スリーには,10年以上,ファシスト日本と交戦している中国代表蒋介石は含まれない。所詮,第二次大戦は欧州大戦である。しかし,欧州優先のために,英国,ソ連,フランスなどは,日本占領へ介入してこなかった。つまり,日本の再建を早める役割を果たした。"The Big 3": Joseph Stalin, Franklin D. Roosevelt and Winston Churchill meeting at Tehran in 1943. English: Teheran, Iran, Dec. 1943--Front row: Marshal Stalin, President Roosevelt, Prime Minister Churchill (wearing his air commodore's uniform) on the portico of the Russian Embassy--Back row: General H.H. Arnold, Chief of the U.S. Army Air Force; General Alan Brooke, Chief of the Imperial General Staff; Admiral Cunningham; Admiral William Leahy, Chief of staff to President Roosevelt, during the Teheran Conference Date December 1943 Author United States Army 12th Air Force Library of Congress's Prints and Photographs division
写真は Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Tehran Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin) File:Tehran Conference leaders Stalin, Roosevelt and Churchill at Russian Embassy in Iran, 1943 (24295403902).jpg引用。


洪仁淑(2000)博士論文「第二次世界大戦直後の東アジアにおける大国の働きと朝鮮民族の対応:朝鮮半島と日本地域を中心に」には,次のように記されている。

1943年10月の米英ソ三国外相のモスクワ外相会議で,晩餐会の席上、スターリンは初めて対日参戦の意思を表明する。これを受けて,1943年11月22-26日の米英中のカイロ会議で、ルーズベルトは蒋介石に大連を自由港として譲ることを要請し,ソ連が中国と協調することを条件に蒋介石は,これに同意した。1943年11月28日から12月1日,米英ソのテヘラン会議で、ルーズベルトはスターリンに、ソ連の不凍港として大連を国際的自由港化する案を提示した。これは,ソ連の対日参戦の代償であるが,中国を犠牲とする取引であった(引用終わり)。

1943年11月22-26日のカイロ会談では,中国,米,英の対アジア戦略は調整しきれず、テヘラン会談The Tehran Conferenceで同様の問題が議論された。

カイロ会談の終了した翌日,1943年11月27日,米大統領,米統合参謀本部,英首相の一行は,別々にカイロから空路でテヘランに向かった。ここで,米英ソの三巨頭の初の首脳会談が開催されることになった。(STRATEGIC PLANNING FOR COALITION WARFARE 1943-1944 by Maurice Matloff参照)

1943年11月28日から12月1日のテヘラン会談では,スターリンが対日参戦の意向を示唆し,英米中ソを“4人の警察官”として戦後の安全保障機構を樹立するというルーズヴェルトの国連構想が承認された。1944年5月の欧州侵攻Operation Overlord,トルコへの参戦勧告とソ連のトルコ支持,ユーゴのチトーの率いる反ドイツ・反政府の武装闘争・パルチザンの支援も合意された。

写真(右):1945年2月4-11日,ソ連クリミア半島で開催されたヤルタ会談の三巨頭 "Big Three":Winston Churchill, Franklin D. Roosevelt and Joseph Stalin at Yalta in 1945. 日ソ中立条約の破棄が国際条約違反だという条約文言の正当性を,米英もソ連も歯牙にもかけいない。北方領土をソ連に割譲することを認めたのは,米英であり,日本は戦後,米国に頼る安全保障を選択した。北方領土問題に関して,日本は米国に謝罪を求めなくても良いのか。
English: The Yalta Conference, February 1945 The 'Big Three', Winston Churchill, President Roosevelt and Marshal Stalin, sit for a group photograph outside the Livadia Palace during the Yalta Conference. Behind them, left to right, are: an unidentified man; Lord Leathers, the British Minister of War Transport; Rt Hon Anthony Eden MP, the British Foreign Secretary; Mr Edward Stettinius, the American Secretary of State; Rt Hon Sir Alexander Cadogan, the British Permanent Under-Secretary of State for Foreign Affairs; Mr Vyacheslav Molotov, the Soviet Commissar for Foreign Affairs; and Mr Averell Harriman, the American Ambassador in Moscow. Churchill is speaking to Stettinius. Date between 1939 and 1945 This is photograph NAM 234 from the collections of the Imperial War Museums.
写真は Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Tehran Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin) File:Tehran Conference leaders Stalin, Roosevelt and Churchill at Russian Embassy in Iran, 1943 (24295403902).jpg引用。


第二次世界大戦後の処理について,1945年2月4-11日,米英ソはヤルタ会談を開催し,ヤルタ協定を締結した。ここでは、米英仏ソの四国のドイツ分割統治,ポーランドの国境策定、バルト三国のソ連併合などの東欧諸国の戦後処理を定めた。米ソは,ヤルタ秘密協定として,ドイツ敗戦後90日以内に,ソ連が対日参戦し,千島列島・樺太をソ連に併合することを決めた。カイロ宣言,すなわち朝鮮半島は当面の間連合国の信託統治とし,台湾は中国(蒋介石政府)に返還することも確認された。

日本にとって重要なのは,この公表されなかった「ヤルタ秘密協定」である。

ヤルタ協定:クリミヤ会議の議事に関する議定書中の日本国に関する協定

三大国(ソ連・米国・英国の指導者)は、ドイツが降伏し且つ欧州戦争が終結した後2ヶ月または3ヶ月を経て、ソ連が、次の条件で連合国側において日本国に対する戦争に参加することを協定した。

1 外蒙古(モンゴル)の現状維持。
2 1904年日露戦争の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシア国の旧権利は、次のように回復される。
(イ) 樺太の南部と隣接するすべての島をソ連に返還。
(ロ) 大連を国際港化し、ソ連の優先的利益を認め、海軍基地として旅順港租借権を回復。
(ハ) 東清鉄道と大連に繋がる南満州鉄道は、中ソ合併会社を設立して共同運営。但し、ソ連の優先的利益を保障。中華民国は、満州における完全な利益を保有。
3 千島列島は、ソ連に引渡す。
 前記以外のモンゴル並びに港湾及び鉄道に関する協定は、蒋介石総統の同意を要する。大統領は、スターリン元帥からの通知により、この同意を得るために措置を執る。
三大国の首班は、ソ連の要求が日本国敗北後に確実にされることに合意した。
ソ連邦は、中華民国を日本国の束縛から解放する目的で、自国の軍隊によりこれに援助を与えるため、ソ国連と中華民国との間の友好同盟条約を中華民国政府と締結する用意がある。 (ヤルタ協定意訳引用終わり)

写真(右):1945年2月4日-11日,ソ連クリミア半島で開催されたヤルタ会談:連合国首脳会談の会談によって,米英仏ソによるドイツ戦後の分割統治やポーランドの国境策定、東欧諸国の戦後処理を発表した。日ソ中立条約の破棄を通告したソ連は,1945年8月9日、対日参戦したが,これもヤルタ密約で,米国の了解済みだった。後に冷戦時代になると,米国は豹変してヤルタ協定の拘束力を否定したが,このような詭弁も戦略外交では当然なのであろう。

大元帥は陸軍と海軍が綿密に協力していないことが作戦失敗につながっていると指摘し,先を見通して作戦をするようにと指示している。具体的には,濃霧のためにキスカ島撤収作戦が進捗していないという言い訳に,地理的,季節的な条件を把握していないのか,と激怒している。

1943年5月アッツ島玉砕で,日本軍守備隊が殲滅されたが,これは,日本軍最高司令官大元帥にとって,最大限の屈辱である。国軍の名誉のために,再び完敗の玉砕戦を起こしてはならない。アッツ島より米国本土寄りのキスカ島日本軍守備隊を早く撤収させたい。しかし,大元帥の心中を理解しないかのような陸軍と海軍との対立に,昭和天皇は,苛立っている。

日本軍には陸海軍の統合参謀本部が存在しないが,これが制度上の日本軍の最大の弱点であることを昭和天皇は的確に見抜いている。しかし,陸海軍とも,大元帥にのみ責任を負うとされたために,陸海軍の協力は困難だった。

6.戦争末期,日本軍では,全軍特攻化,一億王特攻が唱えられた。第一線の将兵が潔く玉砕した,自ら発意して特攻したとして,「犠牲的精神の発露」を讃える「特攻玉砕自然発生説」が流布されてきた。これは,玉砕戦・特攻作戦を進めた軍上層部の意図と無責任さを隠蔽する自己欺瞞のように思えてくる。大元帥昭和天皇に身代わりに,敗戦,特攻作戦の最終責任を引き受けた軍上層部の人間は,ごく限られた至高の忠臣であった。敗戦になったとたん,軍上層部の高官たちの中には,自己保身を優先した人物があった。

日本軍の第一線の将兵が自ら発意して体当たり特攻をし,あるいは潔く突撃・斬り込みをし自決したという「特攻玉砕自然発生説」は、レイテ戦での神風特攻隊沖縄玉砕戦について,盛んにいわれるが,次の理由で否定される。
1)直ぐに死ぬべき状況にはない人間が、国に殉ずるのは難しい。なぜ佐官級の軍人の特攻は10名程度しかいないのか。特攻出撃しない高級軍人たちは,卑怯者か。特攻戦死で残される家族は,特攻出撃を喜んだのか。
2)特攻兵器の開発,生産は、第一線の将兵にはできず,軍上層部の命令が不可欠。
3)第一線将兵が、陛下から頂いた航空機を「無断で」自爆、破壊させる身勝手な行動は,軍隊の規律の前では許されない。
4)第一線の将兵は「特攻作戦」を計画,組織,実行するだけの権限,人員,機材をもっていない。
したがって,軍上層部が,特攻「部隊」を編成し,特攻作戦を指揮したのである。形式的に志願させても,実質は命令に等しかった。

日本海軍は,1944年3月に,人間爆弾「桜花」,人間魚雷「回天」,特攻艇「震洋」の開発を決定し,6月には陸軍も突撃艇「マルレ」の設計を開始した。これらの特攻兵器は,1944年10月20日の神風特攻隊(航空機による体当たり自爆攻撃)よりも,半年も前に計画されていた。

1944年7月21日,大本営海軍部(軍令部)は「大海指第431号」を発し,特殊奇襲攻撃として特攻兵器を整備し,特攻作戦を展開する計画を立てている。


特攻兵器の開発・量産;人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」特攻艇「震洋」

写真(右):1947年、東京、A級戦犯として巣鴨拘置所に監禁、極東軍事裁判を受け終身刑の判決を受けた元内閣総理大臣小磯國昭(こいそ くにあき)陸軍大将(1880年3月22日-1950年11月3日):1939年4月7日、平沼騏一郎内閣で拓務大臣を8月30日まで勤め、1940年1月16日から米内政内閣で再び拓務大臣に7月22日まで務めた。東条政権の1942年5月29日から1944年7月22日まで朝鮮総督、東條退陣後、1944年7月22日から1945年4月7日まで首相として政権を担う。しかし,米軍の沖縄本島上陸から1週間後に辞任。戦後,A級戦犯として、東京裁判で終身刑の判決を受けるも,服役中に病死。
English: Kuniaki Koiso during the trial for war crimes at International Military Tribunal for the Far East Date 1947 Source http://mylib.nlc.cn/web/guest/djsp/personcontent?person.id=9C74A6A1707D44F99A4CAFFC55095ED6 Author The Occupation administration
写真は、Category:Kuniaki Koiso File:Kuniaki Koiso 3.jpg引用。


「(水谷川)男は「去る六日、敵が広島に新型爆弾を投下し、一切の通信-内務省得意の無電も-途絶し居り、六里離れたる処の者が負傷したることが、漸く判明したのみである」と内務河原田氏の報告をもたらす。然もその時西部軍司令部は、殆ど全滅したらしいとのことで、[近衛文麿]公と二人、是こそポツダム宣言に独乙以上に徹底且つ完全に日本を破壊すると、彼等が称した根拠であつたらうと語り、或いは是の為戦争は早期に終結するかも知れぬと語り合った。-----直ちに木戸[幸一]内府を訪問せらる。内府も一日の速かに終結すべきを述べ、御上も非常の御決心なる由を伝ふと。

1945年8月9日
「午前九時、軍令部なる高松宮殿下にお電話申し上ぐ。[高松宮]殿下は電話に御出まし遊ばさるるや『ソ連が宣戦を布告したのを知っているか』と仰せあり、すぐ来る様にとの仰せであつたので、十時軍令部に到着、拝謁。余は『是又実に絶好の機会なるを以て、要すれば殿下御躬ら内閣の首班となられ、急速に英米と和を講ぜらるるの途あり。何卒参内遊ばして、御上に或いは内大臣にお打合せ遊ばしては」と言上、殿下は「近衛にやらせろやらせろ』と仰せあつて----余は此の車にて、十一時半荻窪に公を訪ねたる所、夫人と昼食中なりしも、ソ連参戦のことを聞き(陸軍を抑へるには)「天佑であるかもしれん」とて、直に用意し、余も同乗して木戸内大臣を訪問す。---宮中にては最高六人会議の開催せらるるあり、その時会議を終へた鈴木総理が内府の処に来り、今の会議にて決定せる意見を伝へて、ポツダム宣言に四箇条を附して受諾することに決したと語つた。

侍従入江相政『入江相政日記第一巻』
1945年8月9日
「この頃日ソ国交断絶、満ソ国境で交戦が始まった由、この頃容易な事では驚かなくなてつて来てゐるものの、これには驚いた。前途の光明も一時にけし飛んで了つた。御宸念如何ばかりであらう、拝するだけでも畏き極みである。---」 

1945年8月10日
「日ソ関係はモロトフが佐藤大使を呼んで国交断絶を通告して満ソ国境で発表してきたといふのだ。----結局は五、一五、二、二六以来の一連の動きが祖国の犠牲に於て終末に近づきつつあるといふ外ない。一億特攻を強ふるはよいが国民に果してそれだけの気力ありや、いかんともし得ずしてただ荏苒日を過ごしてゐるだけであらう。実に深憂に堪へない。社稷もいよいよ本当の危局に陥つた。全くいやになつて了ふ。---

芦田均『芦田均日記』
1945年8月6日
2B29 dorroped over 広島 3 atomic bombs.

1945年8月8日
午後三時のニュースを聞くと「蘇満国境に於てロシアは攻撃を加へて来た。今朝の零時から」と放送した。愈日蘇開戦である!!----これで万事は清算だ。これ以上戦争がやれるとは思はない。平和問題ゼミナール:「1945.8.10-終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸引用

広島と長崎への原子爆弾投下;原爆終戦和平説の誤り


7.アジア太平洋戦争の末期,宮中グループは,軍上層部や国民の間に,共産革命を許容する動きがあり,国体が変革される可能性を大いに危惧していた。1945年2月14日の「近衛上奏文」が,国体護持のために,終戦の聖断を求めたのも,同様の趣旨からである。天皇の権威は,大日本帝国憲法によって与えられたのではない。皇祖の天孫降臨神話によっている。天皇の権威があって,大日本帝国憲法が,欽定憲法として与えられた。米軍空挺部隊や上陸部隊の本土上陸によって,伊勢神宮,三種の神器などが奪われては、天皇制の正当性が損なわれる。

1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。「近衛公の自殺」によれば,「支那事変の過誤は数え切れぬ程ある。この支那事変の過誤を是正し訂正せんがため日米会談が起こったのである。僕はこの会談の成立せんことを心から祈り、わが国のため日夜心血を注いだのである。しかし、結果においてわれわれの力が足りなかったのだ。第三次近衛内閣がバトンを東条大将に渡すといふことは日本を戦争に導くための更迭ではなく、東条をして更に和平に努力せしめんとするにあり、また東条によって軍閥を抑へ得るものと思ったところに運命的重大な錯誤がある。」「戦争前は軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとののしられ戦争が終われば戦争犯罪者だと指弾される、僕は運命の子だ」といった。

『画報 躍進之日本』のカラー表紙を飾った大日本帝国首相・近衛文磨公爵:1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。1940年9月号 東洋文化協会発行。1940年7月22日に第二次近衛文麿内閣成立後,9月27日、日独伊三国軍事同盟が締結された。これを発表するかのような近衛首相の演説が画報の表紙を飾った。白黒写真しか普及していない時代,カラーの絵画・着色写真には,大きなインパクトがあったはずだ。10月には既成政党を解散して挙国一致の大政翼賛会の結成を図る。しかし,一党独裁は日本の国体(天皇制)に相容れないため,新党の結成には至らなかった。10月12日の大政翼賛会の発足式でも首相は「大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる。これ以外には、実は綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において方向の誠を致すのみである」と放言した。その後,政党が混乱,解散する中で,軍部と官僚の主導(輔弼力?)が高まる。1941年7月28日にフランスのインドシナ半島植民地「南部仏印」に進駐(軍事占領)。米国の対日制裁が強化され,日米和平交渉も行き詰まった。9月6日御前会議で修正した『帝国国策要綱』で10月下旬の対米英蘭戦争を決意。『神戸市「戦争体験を語り継ぐ貴重な資料」所蔵引用。

近衛文麿は,「英米本位の平和主義を排す」として,アジアのリーダーシップを確保しようとしたが,息子は米国スタンフォード大学に留学させている。「第一次近衛声明」では「国民政府を対手とせず(帝国政府声明)」、「第二次近衛声明」では「東亜新秩序建設の声明」、「第三次近衛声明」では「日支国交調整方針に関する声明(内閣総理大臣談)」を世界に向けて発信したため、対中国強硬外交、新秩序重視の革新外交を進め、ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニと並べられる状況にあった。しかし、日米開戦が東条英機首相の時期だったため、戦争犯罪者としての責任を認識していなかった。

首相近衛文麿日中全面戦争を開始した。しかし,日米開戦を回避しようとしたこともある。1945年2月14日に「近衛上奏文」で「敗戦ハ遣憾ナカラ最早必至ナリト存候」として,次のように昭和天皇に上奏した。

敗戦ハ我カ国体ノ暇僅(カキン)タルベキモ、英米ノ世論ハ今日マテノ所国体ノ変革トマテハ進ミ居ラス。随(シタガッテ)敗戦ダケナラハ 国体上ハサマテ憂フル要ナシト存候。国体護持ノ建前ヨリ最モ憂フルベキハ 敗戦ヨリモ 敗戦ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ニ御座候。(中略)

-----ソ連ハヤガテ日本ノ内政ニ干渉シ來ル危險十分アリト存セラレ候。---右ノ内特ニ憂慮スヘキハ軍部内一味ノ革新運動ニ有之候。
少壮軍人ノ多数ハ 我国体ト共産主義ハ兩立スルモノナリト信シ居ルモノノ如ク、軍部内革新論ノ基調モ亦ココニアリト存シ候。(中略)

抑々満州事変、支那事変ヲ起シ、之ヲ拡大シテ遂ニ大東亜戦争ニマテ導キ来レルハ 是等軍部内ノ意識的計画ナリシコト 今ヤ明瞭ナリト存候。満州事変当時、彼等カ事変ノ目的ハ国内革新ニアリト公言セルハ、有名ナル事実ニ御座候。(中略)

昨今戦局ノ危急ヲ告クルト共ニ 一億玉碎ヲ叫フ声 次第ニ勢ヲ加ヘツツアリト存候。カカル主張ヲナス者ハ 所謂右翼者流ナルモ 背後ヨリ之ヲ煽動シツツアルハ、之ニヨリテ国内ヲ混乱ニ陷レ 遂ニ革命ノ目的ヲ達セントスル共産分子ナリト睨ミ居リ候。(中略)

一方ニ於テ 徹底的ニ米英撃滅ヲ唱フル反面、親ソ的空氣ハ次第ニ濃厚ニナリツツアル樣ニ御座候。軍部ノ一部ニハ イカナル犠牲ヲ拂ヒテモソ連ト手ヲ握ルヘシトサヘ論スルモノモアリ、又延安トノ提携ヲ考ヘ居ル者モアリトノ事ニ御座候。

----勝利ノ見込ナキ戦争ヲ之以上継続スルハ、全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト存候、随テ国体護持ノ立場ヨリスレハ、一日モ速ニ戦争終結ヲ講スヘキモノナリト確信仕リ候。
戦争終結ニ対スル最大ノ障害ハ 滿洲事變以來 今日ノ事態ニマテ時局ヲ推進シ来タリシ軍部内ノカノ一味ノ存在ナリト存候。彼等ハ已ニ戦争遂行ノ自信ヲ失ヒ居ルモ、今迄ノ面目上飽クマテ抵抗可致者ト存セラレ候。
モシ此ノ一味ヲ一掃セスシテ 早急ニ戦争終結ノ手ヲ打ツ時ハ 右翼、左翼ノ民間有志、此ノ一味ト饗応シテ、国内ニ一大混乱ヲ惹起シ所期ノ目的ヲ達成シ難キ恐有之候。從テ戦争ヲ終結セントスレハ先ツ其前提トシテ此一味ノ一掃カ肝要ニ御座候

此ノ一味サヘ一掃セラルレハ、便乗ノ官僚並ニ右翼、左翼ノ民間分子モ影ヲ潜ムヘク候。蓋シ彼等ハ未ダ大ナル勢力ヲ結成シ居ラズ、軍部ヲ利用シテ野望ヲ達セントスル者ニ外ナラザルカ故ニソノ本ヲ絶テハ枝葉ハ自ラ枯ルルモノナリト存候

---元來米英及重慶ノ目標ハ日本軍閥ノ打倒ニアリト申シ居ルモ、軍部ノ性格ガ変リ ソノ政策カ改マラハ、彼等トシテモ、戦争ノ継続ニ付キ考慮スル樣ニナリハセスヤト思ハレ候。ソレハトモ角トシテ、此ノ一味ヲ一掃シ軍部ノ建直シヲ實行スルコトハ、共産革命ヨリ日本ヲ救フ前提先決條件ナレハ、非常ノ御勇斷ヲコソ願ハシク奉存候。」(「近衛上奏文」引用)

昭和天皇は、近衛上奏文について,次のように御下問された。(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)
天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」
近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」

天皇「先程の話に軍部の粛清が必要だといったが、何を目標として粛軍せよというのか。」
近衛「一つの思想[統制派]がございます。これを目標と致します。」(中略)
近衛「従来、軍は永く一つの思想[統制派]によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者[皇道派]もありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣、香月、真崎、小畑、石原の流れがございます。これら[皇道派]を起用すれば、当然摩擦を増大いたします。考えようによっては何時かは摩擦を生ずるものならば、この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし敵前にこれを断行する危険を考えれば、[皇道派]阿南、山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。先日、平沼、岡田氏らと会合した際にも、この話はありました。賀陽宮は軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。」

天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」
近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」

1945年2月14日の昭和天皇への近衛上奏文によって,近衛文麿は,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明した。そして,軍部の一味が戦争終結の最大の障害になっているので,彼らを一掃して,軍閥を倒せば,米英中と和平交渉も容易になると考えた。軍部を建直して共産革命より日本を救うために,昭和天皇に終戦の聖断を仰いだのである。しかし,1945年7月26日に,米英中のポツダム宣言が通告されても,即座に終戦を決断するどころか,鈴木貫太郎首相は,7月28・29日に,ポツダム宣言の黙殺拒否声明を世界に発した。

7月27日にポツダム宣言が公表された日本では,7月28日に各紙が「笑止」「聖戦あくまで完遂」などと報道された。鈴木首相も,7月28日に記者会見し「ポツダム宣言はカイロ会談の焼直しであり,政府として黙殺して、断固戦争完遂に邁進する」とした。7月29日,日本の同盟通信社は,黙殺を"ignore it entirely"と、ロイターとAP通信は"Reject(拒否)"と訳し報道した。

写真(右):1945年3月10日、ボーイングB-29爆撃機300機以上による東京夜間大空襲の焼死者;身元確認のためか、遺体に見入っている。当時警視庁のカメラマンだった石川光陽氏撮影の記録写真だが、当時このような惨く敗北的な写真は公開できなかったであろう。B-29重爆撃機300機以上がマリアナ諸島を発進し東京を夜間空襲した。主に焼夷弾を投下して,住宅を焼き尽くす作戦である。米軍爆撃機の米国人搭乗員が殺害したのであるが,殺害者が焼死体を直接見ることもないので,罪悪感は感じない場合が多かった。それどころか、米軍兵士や中国の民衆を虐待した日本人が受けるべき報いであると考えた兵士もいた。現在は内外でしられている写真であるが、当時警視庁のカメラマンだった石川光陽氏は、自宅の庭に穴を掘ってフイルムを隠し、写真を没収されるのを防いだという。東京写真紀行:東京大空襲引用。遺族の感情は尊重されるべきだが、現代の我々も、このような悲惨な結末にあった人々のことを記憶しておくことが必要だと思う。

1944年11月24日、B-29爆撃機による武蔵野の中島飛行機工場に対して初の空襲が行われた。それ以降、1945年1月23日、有楽町・銀座地区が標的になり、有楽町駅は民間人の死体であふれた。1945年3月9日から10日に日付が変わった直後に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下され、その後、城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されている。

カンザスの戦いとして,昼夜分かたぬ大量生産されたB-29は,ハワイ経由でマリアナ諸島に空輸。そこで,輸送船によって運搬された焼夷弾を搭載,1機当たり1520発の焼夷弾の筒子爆弾を目標に投下することになる。都市無差別爆撃では、労働者の住宅の密集する住宅地を標的に、軍需生産を担う労働者を殺害し、その家屋を破壊する。こうして,厭戦気分を高めて、戦意を挫き、戦争指導に支障をきたすことを意図していた。

1944年11月24日の東京都武蔵野市の中島飛行機空襲以来,サイパン島やテニアン島から出撃したB29爆撃機が,連日のように本土を空襲した。1945年3月10日,米B29爆撃機340機が東京を大空襲し,死者10万人、負傷者11万人、家を失った者100万人に達した。B29爆撃機は,5月24日250機、翌25日250機が東京を再び大空襲した。

平和問題ゼミナール:「1945.8.10-終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸は,宮中グループの日記や手記の次のような文書を紹介している。

岳父近衛文麿公爵秘書官細川護貞『細川日記』
1945年8月8日
「(水谷川)男は「去る六日、敵が広島に新型爆弾を投下し、一切の通信-内務省得意の無電も-途絶し居り、六里離れたる処の者が負傷したることが、漸く判明したのみである」と内務河原田氏の報告をもたらす。然もその時西部軍司令部は、殆ど全滅したらしいとのことで、[近衛文麿]公と二人、----是の為戦争は早期に終結するかも知れぬと語り合った。-----木戸[幸一]内府も一日の速かに終結すべきを述べ、御上も非常の御決心なる由を伝ふと。又、内府の話によれば、広島は人口四十七万人中、十二三万が死傷、大塚総監は一家死亡、西部軍司令部は畑元帥を除き全滅、午前八時B29一機にて一個を投下せりと。

1945年8月9日
「----[高松宮]殿下は電話に御出まし遊ばさるるや『ソ連が宣戦を布告したのを知っているか』と仰せあり、すぐ来る様にとの仰せであつたので、十時軍令部に到着、拝謁。余は『是又実に絶好の機会なるを以て、要すれば殿下御躬ら内閣の首班となられ、急速に英米と和を講ぜらるるの途あり。---」と言上、十一時半荻窪に[近衛文麿]公を訪ねたる所、---ソ連参戦のことを聞き(陸軍を抑へるには)「天佑であるかもしれん」とて、直に用意し、余も同乗して木戸内大臣を訪問す。---宮中にては最高六人会議---を終へた鈴木総理が内府の処に来り、今の会議にて決定せる意見を伝へて、ポツダム宣言に四箇条を附して受諾することに決したと語つた。

侍従入江相政『入江相政日記第一巻』
1945年8月9日
「この頃日ソ国交断絶、満ソ国境で交戦が始まった由、この頃容易な事では驚かなくなてつて来てゐるものの、これには驚いた。前途の光明も一時にけし飛んで了つた。御宸念如何ばかりであらう、拝するだけでも畏き極みである。---」 

1945年8月10日
「日ソ関係はモロトフが佐藤大使を呼んで国交断絶を通告して満ソ国境で発表してきたといふのだ。----結局は五、一五、二、二六以来の一連の動きが祖国の犠牲に於て終末に近づきつつあるといふ外ない。一億特攻を強ふるはよいが国民に果してそれだけの気力ありや、いかんともし得ずしてただ荏苒日を過ごしてゐるだけであらう。実に深憂に堪へない。---」

芦田均『芦田均日記』
1945年8月6日
2B29 dorroped over 広島 3 atomic bombs.

1945年8月8日
午後三時のニュースを聞くと「蘇満国境に於てロシアは攻撃を加へて来た。今朝の零時から」と放送した。愈日蘇開戦である!!----これで万事は清算だ。これ以上戦争がやれるとは思はない。平和問題ゼミナール:「1945.8.10-終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸引用

本土決戦兵士:特攻専用機「剣」人間魚雷「海龍」:実現しなかった一億総特攻

木戸幸一:学習院に入学し、京都帝大では近衛文麿、原田熊雄を学友とする。商工省をへて内大臣牧野伸顕の秘書官長となる。宗秩寮総裁をへて,1930年内大臣府秘書官長。1937年第1次近衛文麿内閣で文部大臣・厚生大臣、1939年平沼騏一郎内閣で内務大臣、1940-1945年に内大臣を務める。

木戸幸一『木戸幸一日記』「カマヤンの虚業日記」引用)
昭和二十年七月二十五日(水)晴
 今日軍は本土決戦と称して一大決戦により戦期転換を唱へ居るも、之は従来の手並み経験により俄に信ずる能はず。万一之に失敗せんか、敵は恐く空挺部隊を国内各所に降下せしむることとなるべく、------真剣に考へざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全ふし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失ふこととなり、結局、皇室も国体も護持(し)得ざることとなるべし。之を考へ、而して之が護持の極めて困難なることに想到するとき、難を凌んで和を媾ずるは極めて緊急なる要務と信ず。(引用終わり)

1945年6月8日の御前会議出席者は,内閣総理大臣鈴木貫太郎,枢密院議長平沼騏一郎,海軍大臣米内光政,陸軍大臣阿南惟幾,軍需大臣豊田貞次郎,農商大臣石黒忠篤,外務大臣兼大東亜大臣東郷茂徳,軍令部総長豊田副武,参謀総長代表参謀次長河辺虎四郎である。ここでは,「今後採るべき戦争指導の基本大綱」として,あくまで聖戦を完遂するとして,本土決戦の準備を進めた。

内閣書記官長迫水久常(1964)『機関銃下の首相官邸』恒文社1964によれば,1945年6月8日の御前会議「戦争指導の基本大綱」を巡って,直後の6月22日最高戦争指導会議で,昭和天皇から次のお言葉があったとしている。
「----先般の御前会議において、戦争指導の大綱が決まったが、本土決戦について、この際万全の準備を整えなくてはならないことはもちろんであるが、他面、戦争の終結について、この際従来の観念にとらわれることなく、すみやかに具体的研究をとげ、これの実現に努力するよう希望する---。」

1931年の満州事変以来,1945年8月までに,日本陸軍の参謀総長は5人、海軍の軍令部総長は6人、陸軍大臣は12人、海軍大臣は9人も交代している。この15年間,一貫して対外戦争指導を陸海軍最高司令官「大元帥」として指揮した昭和天皇は、最高レベルの軍事的,政治的,計座的情報を基にして,意思決定を下す。その下された決定は,参謀総長,軍令部総長,陸軍大臣,海軍大臣の誰一人として変更できない。 

伊藤博文が「憲法は君権を制限しなければならない」と考えていたのは,天皇が絶対権力(統治権)を握っていることを理解していたからである。大日本帝国憲法は大権事項が多いが,これは成文化されていない国体が周知の事実だったからである。

大日本帝国憲法ですら,天皇の持つ大権を若干制限するに過ぎないのであって,事実上,絶対君主の地位を与えている。天皇にも自制心があり,絶対君主だから,人殺しも自由であるという無茶な発想はありえない。中国の歴代皇帝,欧州の歴代皇帝をみればわかるように,一流の専制絶対君主は,啓蒙され,臣民に対してよき統治を目指すものだ。昭和天皇も,立憲君主のように振舞った。これは,昭和天皇の至高の人格・神格がそうさせたのである。日本の至高の存在は,憲法ではなく,国体である。

写真(右):1944年12月8日,宣戦布告記念日の大元帥陛下「礼強御統帥」;毎月8日は「大詔奉戴日」(たいしょうほうたいび)、天皇より開戦詔書を頂いた有り難い日。開戦記念日の12月8日には,毎年新聞の一面に、天皇陛下の立派な写真が掲載されるのが通例だった。「大元帥に戦争指導の実験はなく,軍部の飾り物だった」「天皇は立憲君主制の下にあった」という誤った俗説は,不敬罪にあたる。(終戦記念日の新聞引用)

参謀総長杉山元陸軍元帥は就任中の1940年10月から1944年2月まで,大本営政府連絡会議や上奏の際の御下問奉答筆記などを収録した「杉山メモ」を残した。

1941年2月1日,日米開戦前にインドシナ施策要綱を上奏した際の御下問は,次の通り。
天皇 :世論指導ニ於テ英米ヲ刺戟セズト云フガ,如何ナル方法アリヤ。(→米国が経済制裁を含め,日本に反撃してくることを的確に見抜いている。)
総理 : 現在迄モ充分注意シアリ。今ノ所一般ニ荒々シイ気分ハアリマセン。今後一層注意指導シマス。
天皇 :海軍ハ威圧行動ノ為,幾許ノ兵力ヲ使用スルカ。(→米英の世論への刺激を抑えながら,威圧を可能とする兵力の算出を命じている。)
海総長:現在ノ艦隊ノ配置ヲ説明ス。高雄ニ在ル兵力要スレハ,連合艦隊ノ一部,若ハ主力ヲ派遣ス。成ルヘク武力行使セズニ,目的達成ヲ期シテ居リマス。
天皇 :陸軍ハ如何。
陸総長:海軍ト同様ノ意見デス。
天皇 :航空基地港湾施設ノ具体的案如何。(→陸軍部隊が陸路進撃する進駐ではなく,航空部隊と艦艇の協力する立体的攻勢を提議している。)
海総長:港湾施設ハ「カムラン」湾ヲ指シマス。航空基地ニ関シテハ未タ確定シテアリマセン。
天皇 :陸軍ノ航空基地ハ如何。
陸総長:「サイゴン」「プノンペン」付近ヲ予定シテ居リマス。之等ハ将来ノ作戦ヲ考慮セハ,当然準備スヘキ航空基地デス。尚「ツーラン」「ナツラン」ニモ必要デス之等ハ,「マレー」ニ対スル上陸作戦ノ為必要デス。
天皇 :「シャム」ニ対シ飛行場ヲ要求シアリヤ。(→同盟関係を結んでいるタイを日本の東南アジア攻勢拠点とする戦略を提議し,日米開戦前から航空兵力を的確に重視している。)
海総長:南部タイニハ,サイゴン附近ト同様必要デス。
陸総長:「サイゴン」附近ニハ特ニ必要テスガ,南部タイニハアマリ考ヘテ居リマセン。全般ヲ通シ,可及的外交ニ依リ,兵力使用ハ成ルヘク避ケタキ方針デス

作戦決定やその実施については、天皇の意思は介在していない,と評して「プレスルームでの記者会見」のようだとする意見がある。しかし,大元帥は,国際関係や戦略だけでなく,地理,兵器についても一流の知識を持つ。最高級の軍事専門家が,的確な質問をして,軍事作戦を勝利に導くべく思案している様子が窺える。

写真(右):1943年10月5日,ニューギニア東北内陸、ラエとマダンの中間、ダンプ、オーストラリア軍が捕虜にした日本陸軍兵士;後方には、オーストラリア軍の兵士と荷物輸送に使役されているニューギニアの住民が見える。ダンプには飛行場があった。
Oceania: New Guinea, Huon Peninsula, Ramu River Finisterre Ranges Area, Ramu River Area, Dumpu
DUMPU, NEW GUINEA. 1943-10-05. SX123484 LANCE SERGEANT N. B. STUCKEY, AUSTRALIAN MILITARY HISTORY SECTION PHOTOGRAPHER (LEFT), CLOSELY EXAMINES A JAPANESE PRISONER CAPTURED BY SX12395 LANCE CORPORAL W. J. CULLEN (RIGHT), OF 2/27TH INFANTRY BATTALION. STUCKEY WAS ATTACHED TO HEADQUARTERS, 21ST INFANTRY BRIGADE. Date 5 October 1943 Source the Australian War Memorial under the ID Number: OG0729
写真は、Wikimedia Commons,Category:New Guinea campaign File:Australian soldiers Japanese POW Oct 1945.jpg引用。


1943年3月3日:ニューギニア東部「ラエ」兵団輸送の失敗上奏(米航空隊の攻撃によりポートレスビー攻略部隊を乗せた輸送船団が大損害を受け撤退) 
御上 何故直クニ「マダン」ヘ決心ヲ変ヘテ上陸シナカツタノカ。此度ノコトハ失敗ト言ヘハ失敗テアルカ,今後ニ於ケル成功ノ基ニモナルナラハ,却ツテ将来ノ為ニハ良イ教訓ニモナルト思フ。
 将来安心ノ出来ル様ニヤツテ呉レ。航空兵力ヲ増加シテ,兵力ノ使用モ安全ナ所ニ道路ヲ構築シ,---地歩ヲ占メテ考ヘテヤツテ呉レ。(→この後,陸軍参謀本部は,従来は海軍の航空兵力しかなかったニューギニア東部へ,陸軍航空隊を派遣する。従来まで補給を軽視していた陸軍であるが,急遽,ニューギニアに道路建設を開始する。)
 今後「ラエ」「サラモア」カ「ガダルカナル」同様ニナラナイ様ニ考ヘテヤツテ呉レ。
 「ガダル」ノ撤退カ成績カ良過キタノテ,現地軍ニ油断アリシニ非スヤ。アトノ兵力ハ如何ニ運用ノ腹案ナリヤ 。(→ガダルカナル島からは陸上部隊を撤退させたが,ニューギニアから撤退させた部隊はない。)

昭和天皇が「よく考ヘてやってくれ」と言った相手は,陸海軍の最高位の将軍である。天皇自身が作戦を直接指揮するのではない。作戦の細部を作成するスタッフ(参謀本部)に,大局的な支持を与えているのである。(社長が,何人の営業担当者をどの町に何時に派遣するか指示することはない。)大元帥は,質問の形をとっているが,実質的な作戦基本方針の提示である。(社長が,提出された計画に色よい返事をしなければ,部下が計画を変更するのは,常識である。)大元帥昭和天皇に統帥権があり,この提案は,至高の命令であり,それに基づいて,帝国陸軍参謀本部はニューギニア方面の作戦計画を立案し,実施した。

写真(右):1944年2月,ニューギニア北岸、ラエ、オーストラリア軍が鹵獲した日本陸軍の九六式15センチ榴弾砲;後方には、オーストラリア軍のテントが張られている。ラエには、日本軍の飛行場があった。
English: Lae, New Guinea. C. 1944-02. Squadron Leader C. Trewen, Sydney, NSW (left), and Flying Officer N. Bartlett, Perth, WA, looking at a Japanese Type 96 15 cm howitzer captured by the AIF at Lae. Date February 1944 Source the Australian War Memorial under the ID Number: OG0729
写真は、Wikimedia Commons,Category:New Guinea campaign File:Captured gun at Lae OG0729.JPG引用。


陸海軍統帥権を保持する大元帥は,現地部隊をコマのように直接動かすのではない。作戦の根幹となる基本方針を決定するのである。しかし,現地部隊の用兵が,あまりにも下手なために,部下を叱責した。米軍の攻撃にあわてて基地に逃げ帰ってた臆病さを叱責し,航空兵力の活動の及ばない地域での道路建設の提言をしている。陸軍の参謀総長を呼びつけて,質問できる大元帥の威厳が,統帥権として具現している場面である。

大元帥のご下問を受けて,参謀総長は,早速,ポートモレスビー攻略のために,陸路を使った山越え作戦を立案する。1943年9月15日,天皇のご下問から半年後,第十八軍司令官安達二十三中将指揮下の第五十一師団の8600名は,サラワケット越えでポートモレスビー攻略のためにラエを出発した。安達軍司令官は,マダンにあり,第二十師団中井少将の率いる第七十八連隊が,マダンとラエ間の道路工事に従事していた。大元帥のご下問という形で申し渡した命令が,忠実に実行に移された。

大元帥の命じた作戦は大失敗する。しかし,大元帥のたてた作戦方針に異議を申し立てるわけにはいかない。ニューギニア派遣軍は「マダン」死守のために,さらに戦死者を増やした。

1943年6月6日「アリューシャン」方面の情勢上奏

天皇 此度作戦計画ヲ斯クシナケレハナラナイコトハ遺憾テアル。トウカ之カラ先ハ,克ク見透シヲツケテ,作戦ヲスル様ニ気ヲ附ケヨ。
総長 洵ニ恐懼ノ至リテ御座リマス。今後十分気ヲ附ケテ参リマス。
天皇 陸軍ト海軍トノ間ハ,シックリ協同シテヤッテイルカ。
総長 全般的ニハ能ク協同シテヤツテ居リマス。殊ニ参謀本部ト軍令部トノ間ハ,克ク協同ノ実ヲ挙ケテ参ツテ居リマス。
 出先ハ局部的ニ各々任務、立場ノ関係カラ,ピツタリ行カヌ点カ無イカモアリマセヌカ,シカシ左様ナ場合ニハ,コチラカラ幕僚ヲ派遣シタリ,出先カラ人ヲ招致シタリシテ,遺憾ノ点ノナイ様ニ致シテ参リマシタカ,今後ハ中央出先トモニ一層注意ヲ致シマス。
天皇 米ノ戦法ハ常ニ我背後ヲ遮断シテ,日本軍ノ裏ヲカク遣リ方カ従来屡々テアル。(→米軍司令官マッカーサーの考えた蛙飛び作戦を見抜いている。)今後トモ,之等ヲ念頭ニ置イテ作戦スル様ニ。
総長 今後一層努力シ最善ヲ尽シマス。

1943年6月8日:「アリューシャン」キスカ島撤退作戦に関して武官長に漏らした御言葉(武官長ヨリ総長ニ連絡)

陛下ハ,一昨日参謀総長ニ又昨日ハ軍令部総長ニ御下問アリ。

今度ノ如キ戦況ノ出現ハ,前カラ見透シカツイテイタ筈テアル。然ルニ,五月十二日ニ敵ガ(アッツ島ニ)上陸シテカラ,一週間カカツテ対応措置カ講セラレ,濃霧ノコトナド云々シテイタガ,霧ノコトナトハ前以テ解ッテイタ筈テアル。早クカラ見透シカツイテイナケレバナラヌ。

陸海軍ノ間ニ本当ノ肚ヲ打開ケタ話合ヒカ出来テイルノテアラウカ。一方カ元気ニ要求シ一方カ無責任ニ引受ケテイルト云フ結果テハナカラウカ。話合ヒカ苟モ出来タコトハ,必ス実行スルト云フコトテナナケレハナラヌ。

 協定ハ立派ニ出来テモ少シモ実行カ出来ナイ約束(ソレハ「ガダル」作戦以来陛下カ仰セニナリシコト)ヲ陸海軍ノ間テシテ置キナカラ実行ノ出来ナイコトハ約束ヲシナイヨリモ悪イ

陸海軍の間軋轢カアツテハ今度ノ戦争ハ成立シナイ陸海軍カ真ニ肚ヲ割ツテ作戦ヲ進メナケレハ-----霧カアツテ行ケヌヨウナラ 艦ヤ飛行機ヲ持ツテ行クノハ間違ヒテハナイカ

 油ヲ沢山使フバカリデ---斯ンナ戦ヲシテハ「ガダルカナル」同様敵ノ士気ヲ昂ケ,中立、第三国ハ動揺シ,支那ハ調子ニ乗リ,大東亜圏内ノ及ボス影響ハ,甚大テアル

 何トカシテ何処カノ正面デ米軍ヲ叩キツケルコトハ出来ヌ。

ビルマハ陸軍カヤツテイルカ,陸軍ハ負ケテハセヌガ,海洋デハ,ドウモ陸軍ノ力ヲ出スヨウニナツテイナイ----杉山ハ,海軍ノ決戦ヲ以テ,今度ノ戦イヲ「カバー」スル様ナコトヲ言ツテイタカ,アンナコトハ出来ハセヌ

◆大元帥昭和天皇は、米軍に一勝しなければ,国際関係上,日本の地位はますます低下することを見抜いていた。大元帥として戦局の不利になっていることは,百も承知だったのである。昭和天皇は,戦局の全般についてのみならず,戦争に参加していない中立国・第三国へも配慮している。まさに,世界の指導者の一人である。)

これは, 『杉山メモ』(下)p.19にのっている話で,1943年5月のアッツ島における陸軍部隊全滅「玉砕」に直面し、昭和天皇は,杉山元参謀総長に次の作戦方針を示した。「霧があって行けぬようなら艦や飛行機を持って行くのは間違いであり,石油の浪費である。このような作戦は,敵の士気を高揚させて,中立や第三国を日本から離反させ,中国を利することになる。大東亜共栄圏内の占領地域は敗退続きの日本を信頼しなくなる。米軍に攻撃を仕掛けて,局地的な勝利をあげ,民心を安定させよ。」大元帥の統帥のあり方を具現した「御下問」である。(半月城通信No. 53参照)

大本営政府連絡会議や最高戦争指導会議などでは大元帥昭和天皇も親臨する御前会議も開かれたが,陸軍と海軍の作戦は,事実上,別々であった。陸海軍は,航空兵器,爆弾,弾薬,火器の規格も,操作方法もまったく異なっていた。

資源確保が,戦略上不可欠であることも熟知していた。艦隊行動が石油の無駄遣いになることを憂慮している。国際関係にも配慮して,占領地の人心掌握を心配している。ミャンマー方面では陸軍中心であるが,インド洋方面の情勢に陸軍が対処できないことを嘆いている。

戦争中盤以降,大元帥は,軍高官の上奏に際して,攻勢をかけることを要望している。敵からの攻撃を受けて,受動的に戦争をするのでなく、主導権を確保して、戦機を掴むように命じている。「天皇は戦争の実態をしらなかった」という話は,戦後の捏造である。軍人は,臣下として天皇に忠誠を尽くすことを本分としており,戦局の悪化,都合の悪い事実も隠さず報告している。不興をかえば,辞任,自決するのみである。大本営発表では,軍事能力のない国民相手に,偽りのプロパガンダも多かったが,最高の戦略策定能力を持つ大元帥には,戦局の実相が伝えられ,作戦企図も明確に述べられていた。

木戸幸一:学習院に入学し、京都帝大では近衛文麿、原田熊雄を学友とする。商工省をへて内大臣牧野伸顕の秘書官長となる。宗秩寮総裁をへて,1930年内大臣府秘書官長。1937年第1次近衛文麿内閣で文部大臣・厚生大臣、1939年平沼騏一郎内閣で内務大臣、1940年-1945年に内大臣を務める。

木戸幸一『木戸幸一日記』「カマヤンの虚業日記」引用)
昭和二十年七月二十五日(水)晴
 (略)午前十時二十分拝謁す。戦争終結につき種々御話ありたるを以て、右に関連し大要左の如く言上す。
 今日軍は本土決戦と称して一大決戦により戦期転換を唱へ居るも、之は従来の手並み経験により俄に信ずる能はず。万一之に失敗せんか、敵は恐く空挺部隊を国内各所に降下せしむることとなるべく、------爰に真剣に考へざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全ふし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失ふこととなり、結局、皇室も国体も護持(し)得ざることとなるべし。之を考へ、而して之が護持の極めて困難なることに想到するとき、難を凌んで和を媾ずるは極めて緊急なる要務と信ず。(引用終わり)

写真(右):1945年8月1日,ポツダム会談終了後の三巨頭 "Big Three"英首相アトリーBritish Prime Minister Clement Atlee; 米大統領トルーマンU.S. President Harry S. Truman; ソ連首相スターリンSoviet Premier Joseph Stalin:後方は,米海軍参謀長レーヒ提督Fleet Admiral William D. Leahy, USN, Truman's Chief of Staff(日本軍兵士の心理研究書を執筆し,日本人ガールフレンドもいた。国体護持の条件を提示すれば日本は降伏すると主張。); 英外相ベヴィンBritish Foreign Minister Ernest Bevin; 米国務長官バーンズU.S. Secretary of State James F. Byrnes(対ソ外交を有利にするために原爆投下を主張した反共主義者。トルーマンの政治先導者); ソ連外相モロトフSoviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov(独ソ不可侵条約,日ソ中立条約締結)。1945年7月26日に,米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置を定めるポツダム宣言が公表された。
English: Britain's new Prime Minister, Clement Attlee, with President Truman and Marshal Stalin at the Potsdam Conference in Berlin, 1 August 1945. Clement Attlee with President Truman of the United States and Marshal Stalin of the Soviet Union at the Potsdam Conference in Berlin, shortly after winning the British General election in 1945. Standing from left to right are Admiral Leahy, Ernest Bevin, James Byrnes and Vyacheslav Molotov. The last of the war-time summit conferences was held at Potsdam, outside Berlin from 16 July to 2 August 1945 and the results of the British General Election were announced while it was in session. Churchill and Eden initially headed the British delegation and were accompanied by Attlee who was leader of the opposition at the start of the conference but Prime Minister for the final sessions. Date 1945 BU 9496 from the collections of the Imperial War Museums.
写真は、Wikimedia Commons,Category:Group photographs at the Potsdam Conference (Attlee, Stalin, Truman) File:Britain's new Prime Minister, Clement Attlee, with President Truman and Marshal Stalin at the Potsdam Conference in Berlin, 1 August 1945. BU9496.jpg引用。


1945年7月17日,ドイツ・ベルリン郊外のポツダム会談において、米大統領ハリー・トルーマン(4月12日就任),英首相チャーチル(後日は新首相アトリーに変更)、ソ連首相スターリンの三巨頭は,ドイツ敗北後の欧州,特にポーランドなど東欧の戦後処理を話し合いをはじめた。その際,いまだ交戦していた日本に対する降伏勧告も検討された。ポツダム会談前日,1945年7月16日、米ニューメキシコ州で初の原子爆弾(プルトニウム型)の爆発実験が成功したために,米国は,ソ連に対して強硬な態度に出たが,これは日本に対する降伏勧告にも反映した。

日本への降伏勧告「ポツダム宣言」は、三巨頭共同宣言ではない。会談の期間中に、ソ連にかわって中国の蒋介石が宣言した。この宣言を受諾しない場合,日本は迅速かつ完全に破壊されるとの冷徹な通告を行ったが,これは原子爆弾投下を隠喩したものだった。

This "Potsdam Declaration" described Japan's present perilous condition, gave the terms for her surrender and stated the Allies' intentions concerning her postwar status. It ended with an ultimatum: Japan must immediately agree to unconditionally surrender, or face "prompt and utter destruction".

ポツダム宣言を要約すれば,日本軍の無条件降伏(13),軍国主義者の排除(4),占領地・植民地(朝鮮・台湾など)放棄・本土への領土限定(8),戦争犯罪人の処罰(10)を求めた降伏勧告がなされたといえる。

ポツダム会談は,実は,従来の連合国首脳会談とは,首脳陣が大きく入れ替わっている。米大統領ルーズベルトFranklin D. Rooseveltは,1945年4月12日脳溢血で急死(63歳)し、1945年1月に就任した副大統領ハリー・トルーマンHarry S. Truman(61歳)が、4月12日に第33代大統領に就任。英首相チャーチルも、総選挙の開票で一時帰国している最中,選挙で敗北し、7月27日に英国新首相アトリー(1951年10月26日まで在籍)へ政権交代し,ポツダムには戻らなかった。また,ポツダム会談に加わったスターリンは,ポツダム宣言には参加しておらず,中国の蒋介石が欠席しているにもかかわらず,ポツダム宣言の提唱者のひとりとなった。

 連合国の枢軸国への強硬政策が基本方針とされていたために,ポツダム会談では各国首脳陣の入れ替わりや複雑な事情によても,ポツダム宣言における無条件降伏の勧告は,全く変更されなかった。

米海軍参謀長レーヒ提督や陸軍長官スチムソンのように,天皇制の維持,すなわち国体護持を条件とすれば,本土の都市空襲と無制限潜水艦作戦による物資供給の途絶によって戦争遂行能力の低下した日本と講和できると考えた軍の戦略家もいた。

しかし,1941年12月の真珠湾攻撃とドイツの宣戦布告以来,太平洋と欧州で大戦争を戦い,連合国首脳会談を20回も繰り返してきた主戦国アメリカ合衆国としては,日本への無条件降伏の要求を取り下げることはできない。日本が特攻作戦を大規模に展開して,日本本土上陸作戦で多数の米軍死傷者が見込まれるとしても,無条件降伏の要求は変更するつもりは無かった。後日,原爆投下の惨状が明らかになると,米軍の死傷者を少なく抑えるために,日本へ原爆を投下したと,トルーマン大統領,スチムソン陸軍長官は弁明したが,1945年前半の米国の戦略において,敵味方の死傷者の多さは,問題とはなっていない。

枢軸国の無条件降伏に固執した連合国は,都市爆撃や潜水艦による民間商船撃沈を,敵の交戦意思を粉砕し,戦争遂行能力を麻痺させる効果的な方法として,採用していた。アジア太平洋戦争末期の玉砕戦や特攻作戦によって,日本人は,「天皇のためには死をも厭わず戦う狂信的な民族である」と侮蔑的な認識が,米国人(軍民)に広まっていた。日本の国体護持を条件に,日本の早期降伏を促すという案は,一部の知日派の戦略家を除いて,検討しなかったようだ。

しかし,日本側は,米国,連合国とは,全く異なる視点から,戦争の前途を心配していた。

写真(右):1947年,東京裁判でA級戦犯として尋問される木戸幸一元内大臣(1889.7.18~1977.4.6);Autographed photograph of Kido Koichi testifying at the Tokyo Trial, 1947. Collection George Picard. 木戸孝允の養子の木戸孝正の子。妻は陸軍大臣児玉源太郎の四女ツル。東京出身。近衛文麿と共に革新貴族を代表し,現状維持派の西園寺公望らと区別される。厚相・内相時代を通じ産業報国連盟顧問。1940年内大臣に就任、首相前歴者・枢密院議長からなる重臣会議を招集して、内府の責任で後継を奏請する方式を実施。近衛文麿の<新体制>を助ける。この新方式は,元老の手中にあった内閣組閣の権限を内府に移し、政治意思統合の機能を天皇権威に求める傾向を強め,内府の権限拡大に結びついた。(歴史が眠る多磨霊園:木戸幸一引用)

   木戸幸一『木戸幸一日記』二〇・七・三一(
「カマヤンの虚業日記」引用)
 御召により---御前〔昭和天皇〕に伺候す。大要左の如き御話ありたり。
 先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身辺に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。而しこれを何時御移しするかは人心に与ふる影響をも考へ、余程慎重を要すると思ふ。----宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰ひたい。万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ。謹んで拝承、直に石渡宮内大臣を其室に訪ひ、右の思召を伝へ、協議す。

〔昭和二十年〕八月九日(木)晴
 ----御文庫にて拝謁す。ソ連が我が国に対し宣戦し、本日より交戦状態に入れり。就ては戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思ふ故、首相と充分懇談する様にとの仰せあり。(略)
十時十分、鈴木首相来室、依って聖旨を伝え、この際速にポツダム宣言を利用して戦争を終結に導くの必要を力説、----。首相は十時半より最高戦争会議を開催、態度を決定したしとのことにて辞去せらる。(略)
一時半、鈴木首相来室、最高戦争指導会議に於ては、一、皇室の確認、二、自主的撤兵、三、戦争責任者の自国に於ての処理、四、保障占領せざることの条件を以てポツダム宣言を受諾することに決せりとのことなりき。(引用終わり)

天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天照大神(アマテラス)の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が、葦原中国の平定,統治のために降臨したという日本神話である。天照大神の命により、葦原中国を統治するために,高天原から高千穂峰に降る(天孫降臨)。その時,王権・統治権・主権のシンボルとして三種の神器(八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣)と常世のオモイカネ、タヂカラオ、アメノイワトワケを副えた。「この鏡を私(アマテラス)の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。オモイカネは、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と神勅を伝えた(『古事記』)。これらの二柱の神は伊勢神宮に祀ってある。トヨウケは伊勢神宮の外宮に鎮座している。

天孫降臨の神話,三種の神器は,天皇の大権の基盤であり,象徴である。憲法が,天皇の大権を定めるのではなく,神勅が定めている。『昭和天皇独白録』でも終戦の聖断を下した理由として「第二には国体護持の事で木戸も同じ意見であったが、敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい。」とある。

万世一系の皇祖からの伝統・神話が,国体の正当化するのであって,明治天皇が臣民に与えた大日本帝国憲法が天皇を統治者たらしめるのではない。三種の神器は,天皇を統治者としての正当化すると同時に,天皇にとっても皇祖との契約でもあり,守るべき責任がある。

しかし,外国からの侵略軍は,天孫降臨の神話,三種の神器の権威を認めない。連敗の軍や敗戦の困窮に陥れられたと感じている国民も,天皇の権威を認めないかもしれない。日本軍の一部(特に統制派)とソ連,延安にある中国共産党とが共謀して,国民を煽動して,国体変革をたくらむ共産革命を引き起こすかもしれない。連合軍、日本軍、臣民が抱く感情を考えると、昭和天皇は、国体護持に関する巨大な不安をに襲われたであろう。大元帥昭和天皇に,終戦の聖断を下す背景にあった。原爆投下という外圧は,軍の主戦派に対して,国民をこれ以上の苦しみから救うという理由を正当化し,ソ連参戦は,国体変革を目の前の危機として意識させた。

1945年8月9日の御前会議では,ポツダム宣言受諾の可否について,閣僚,軍指導者たちの意見が述べられたが,終了後,昭和天皇は木戸幸一に次のように語った。

「本土決戦本土決戦と云ふけれど,一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず又決戦師団の武装すら不充分にて,之が充実は9月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論,忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。----(『木戸幸一日記』[御前会議 引用])

1945年8月10日,日本は,スイス政府を通じて,米国務長官バーンズJAMES F. BYRNESに降伏を申し出た。スイスのMAX GRSLIからバーンズへの書簡(1945年8月10日付)は,天皇制を前提にして,日本軍を降伏させ,武装解除すること,天皇制のその後の存続は,日本国民の意思によることが示されていた。

1945年8月14日の御前会議前に,陸軍大臣阿南惟幾大将(8月14日自決)は,昭和天皇に第二総軍司令官の畑俊六陸軍元帥、第一総軍司令官の杉山元陸軍元帥、海軍軍令部総長の永野修身海軍元帥に,意見を聴取することを提案した。開戦時の参謀総長杉山元帥は,開戦時の軍令部総長永野元帥は,昭和天皇に対して「国軍は尚余力を有し志気も旺盛なれば、なおも抗戦してアメリカ軍を断乎撃攘すべき」と徹底抗戦を奏上したという。

写真(右):1945年6月9日、日本、東京、沖縄陥落後に成立した鈴木貫太郎内閣。前列左より司法大臣松阪廣政、厚生大臣岡田忠彦、内閣総理大臣鈴木貫太郎海軍大将(1880年3月2日~1948年4月20日)、その隣に米内光正海軍大臣、後列右、陸軍大臣阿南惟幾陸軍大将 (あなみ これちか、1887年2月21日 - 1945年8月15日) :阿南惟幾大将は、鈴木貫太郎総理大臣とは、以前に侍従長と侍従武官の関係だった。1943年5月1日陸軍大将.1944年12月26日 航空総監兼軍事参議官,1945年4月7日,陸軍大臣。参謀総長梅津美治郎とともに降伏拒否、本土決戦を強硬に主張するも、昭和天皇の終戦の聖断に従う。軍事クーデターを戒め、1945年8月14日夜、ポツダム宣言受諾の直前に陸相官邸で自刃。「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」昭和二十年八月十四日夜 陸軍大将惟幾辞世。」二列目、左より内務大臣安倍源基、国務大臣櫻井兵五郎、軍需大臣豐田貞次郎、国務大臣安井藤治、農商大臣石黒忠篤、文部大臣太田耕造、外務大臣東郷茂徳(とうごう しげのり:1882-1950年7月23日)、国務大臣左近司政三、運輸大臣小日山直登、大蔵大臣廣瀬豐作、内閣綜合計画局長官秋永月三(あきなが つきぞう)、内閣書記官長迫水久常、法制局長官村瀬直養、陸軍大臣阿南惟幾 国務大臣下村宏。
Captions available at File:Suzuki cabinet.svg. The cabinet of Japanese prime minister Kantaro Suzuki posing in front of the National Diet Building of Japan. Those pictured are: Tadahiko Okada, Hiromasa Matsuzaka, Kantaro Suzuki, Mitsumasa Yonai, Genki Abe, Heigoro Sakurai, Sadajiro Toyada, Fujihara Yasui, Tadaatsu Ishiguro, Kozo Ohta, Shigenori Togo, Seizo Sakonji, Naoto Kobiyama Hosaku Hirose, Tsukizo Akinaga, Hisatsune Sakomizu, Naoyasu Murase, Korechika Anami Date 9 June 1945 Source Japan's Longest Day (1968 English language edition), page 185 Author (Unknown).
写真は Wikimedia Commons, Category:Kantarō Suzuki File:Paul Wenneker and Mitsumasa Yonai.png引用。


1945年7月26日発表のポツダム宣言の受諾をめぐって,閣内の意見がわかれた。阿南惟幾陸相は、「一億玉砕を覚悟で、本土決戦をすべきである」として徹底抗戦を主張した。広島への原爆投下の3日後,8月9日の御前会議でも、8月14日の最後の御前会議でも,阿南惟幾陸相は一貫して,徹底抗戦を主張する主戦派であった。しかし,阿南惟幾大将は、侍従武官長も経験しており,皇道派として、天皇に対する忠誠心がある。(近衛上奏文の述べた皇道派による軍の一新が思い起こされる)

阿南惟幾陸相は、悠久の日本の歴史のなかで,初めての降伏という恥辱の決断を大元帥昭和天皇にさせるつもりはなかった,昭和天皇は,萬世一系の栄えある(降伏をしたことのない)天皇家の名誉を保持すべきであり,「終戦=降伏の聖断」を下し汚名を被るに忍びない。阿南惟幾大将は,その天皇の苦衷を察して,徹底抗戦を主張した。天皇への忠誠心の篤い皇道派の陸軍大将,元侍従武官長であるからこそ,大元帥昭和天皇の名誉のために,本土決戦を戦う覚悟だったのであろう。

終戦の聖断下った最後の御前会議の後(8月14日夜),阿南惟幾陸相は,他の参加者とともに終戦の詔書に副書(署名)した。終戦の聖断が下ったために阿南惟幾陸相は、8月15日早朝、「一死、大罪を謝し奉る」として割腹自殺した。阿南惟幾陸相の自決は、陸軍が終戦を受け入れるためではなく,天皇の苦衷の大御心を思って,敗戦という最大の汚点=戦争敗北責任を全て引き受け,国体護持の忠誠心に殉じた。阿南惟幾陸軍大将は,最も不名誉な日本の敗戦責任を引き受け,大元帥昭和天皇に対して,日本敗北という大罪を死をもって謝したのである。戦争責任を認めて引き受けたという点で,阿南惟幾陸軍大臣は,評価される。

写真(右):1940年1-7月頃、日本、内閣総理大臣米内光政海軍大将(1880年3月2日~1948年4月20日)とドイツ大使館付海軍武官ソパウル・ヴェネッカー(Paul Wenneker:1890- 1979):米内は、1937年の林銑十郎内閣で海軍大臣、三国同盟に反対したはずだった。1940年1月16日から1940年7月22日、岩手県出身者で3人目の内閣総理大臣。しかし陸軍の反対で半年後に辞職。1944年7月22日には小磯内閣で4期目の海軍大臣に入閣。ソパウル・ヴェネッカー中佐は、1933年12月、ドイツ大使館在日海軍駐在武官に赴任、1935年4月に大佐に昇進。1937年8月末にドイツに帰国。第二次世界大戦勃発直後、1939年10月、准将として「ドイチュラント」艦長となり通商破壊戦に出撃。1940年2月、二度目の日本駐在海軍武官をドイツ降伏の1945年5月まで務めた。1941年9月、中将、1944年8月、大将に昇進。
English: Paul Wenneker and Mitsumasa Yonai, admirals of the Kriegsmarine and IJN. Date 5 April 2020 Author Ryu_ya634.
写真は Wikimedia Commons, Category:Mitsumasa Yonai File:Paul Wenneker and Mitsumasa Yonai.png引用。


本庄繁陸軍大将は,枢密院顧問であり,元関東軍司令官として,活躍したため,1945年11月20日,割腹自殺した。享年68歳であった。また,陸軍の梅津美治郎陸軍参謀総長は東京裁判で戦争責任を引き受けた。

しかし,日本海軍の米内光政海軍大臣、豊田副武海軍軍令部総長は,戦争責任を引き受けなかったのであり,敗北の責任を謝すこともなかった。もちろん,降伏調印式への出席も理由をこじつけ断っている。彼ら海軍の戦争指導者は,戦犯追及を逃れるだけでなく,敗戦の責任も認めない。敗戦の責任を事実上,大元帥一人に負わせた。戦争の大権,軍の統帥権を文字する最高司令官に責任転嫁するのは,敗北後のドイツの将軍たちと変わらない。戦争責任を回避して,保身に勤める高級軍人たちは,大元帥昭和天皇への忠誠心,敗戦の責任・悔恨があるのかどうかも怪しくなってくる。

杉山元陸軍元帥は,1940~1944年参謀総長,教育総監をへて1944年7月小磯内閣で陸軍大臣,1945年鈴木内閣では第一総軍司令官。1941年に対米戦争の成算を昭和天皇から「汝は支那事変勃発当時の陸相であるが、あのとき事変は3ヶ月で終わると申したのに今になっても終わっていないではないか」と詰問され,杉山が「支那は広うございますので」と釈明した。すると、昭和天皇は「太平洋は支那より広いではないか」と逆鱗に触れた逸話がある。

杉山元陸軍元帥は,敗戦後1945年9月12日拳銃自決し、夫人もそれに殉じた。戦争責任を理解していた所作であろう。参謀総長時代に会議の内容などを記した「大本営政府連絡会議議事録(杉山メモ)」を残している。

天皇に政策や戦略の裁可を求める「上奏」は,内閣と軍部(参謀本部と軍令部)の二通りがある。日清・日露戦争においては、当時の首脳陣が内閣と軍部を取りまとめて一括して上奏した。しかし1930年代になると軍部は統帥権の独立を理由として、単独上奏するようになった。そこで,統帥権の独立によって、議会と内閣は,軍部に制約を加えられなくなったのである。したがって,統帥権を保持する大元帥天皇のみが,軍部と直接に,軍事作戦について討議することになる。大元帥昭和天皇は,陸軍参謀総長と海軍軍令部総長に輔弼されてはいるが,議会,内閣の輔弼を受けられないまま,軍事作戦に関与せざるをえない。

1944年12月5日に、海軍の軍令部作戦(正式には第一)部長に就任した富岡定俊少将も述べている。降伏調印式という「無残な敗北戦後の席」に,軍令部総長も海軍大臣も出席を拒んだ。東京裁判において,日本陸軍は大将5人、中将1人が絞首刑になったが、海軍の将官はひとりも処刑されなかった。

1945年8月6日に広島への原爆投下、8月9日に長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告があった。この危機に直面し,海軍大臣米内光政大将は,1945年8月12日,次のように語った。
 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」(『海軍大将米内光政覚書』;ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)


写真(右):1945年8月9日あるいは14日、国体護持を期待してポツダム宣言受諾、無条件降伏が大元帥昭和天皇の最終決定(聖断)で決まった御前会議の記念写真:会議場は地下10メートルの宮中防空壕内にあり、広さは15坪。8月9日23時に開催された御前会議の出席者は、総理大臣鈴木貫太郎海軍大将・外務・陸軍・海軍の四大臣、陸軍参謀総長・海軍軍令部総長、平沼枢密院議長の七名が正規の構成員だったが、陪席員は内閣書記官長迫水久常私、陸海軍の軍務局長、内閣綜合計画局長官の4名、合計11名だった。8月14日23時開催の御前会議は、陪席も含めて23人もが出席した。 昭和天皇は、8月14日午後11時30分12時にかけて、内廷庁舎二階の御政務室で「終戦の詔書」(玉音放送)をレコードに音した。
日本語: 終戦を決定した御前会議。 English: Gozen_Kaigi which made the formal decision for Japanese surrender. Date 昭和20年8月14日 / 14 August 1945 Source www.cc.matsuyama-u.ac.jp/ ~tamura/gozennkaigi.htm Author Unknown author
写真は、Category:Emperor Hirohito in 1945 File:Gozen-kaigi 14 August 1945.jpg引用。


1945年2月14日の昭和天皇への「近衛上奏文」によって,近衛文麿は,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明していた。近衛公秘書官細川護貞は,ソ連の宣戦布告は終戦の「絶好の機会」とし,近衛文麿公爵自身もソ連参戦を「天佑」とするなど,宮中グループは,終戦の形式的な理由が与えられたことを嗅ぎ取った。そして,不穏な国内情勢,すなわち国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感が,日本を混乱させ,国体の変革にもつながると敏感に感じ取っていた。

1945年8月14日の最後の御前会議では,陸軍(梅津・阿南),内閣(豊田)らの主戦派の意見を聴取した後,昭和天皇が「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ。内外ノ情勢,国内ノ情態彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々ニ考ヘタモノデハナイ。 国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ毛頭不安ナシ。----戦争ヲ継続スレバ 国体モ国家ノ将来モナクナル 即チモトモコモナクナル。今停戦セハ将来発展ノ根基ハ残ル……自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ。速ニ詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)ヲ出シテ此ノ心持ヲ傳ヘヨ。」と終戦の聖断を下したという(御前会議引用)。


8.アジア太平洋戦争の敗戦は,終戦の聖断によって,決定した。しかし,1945年9月2日,東京湾上のアメリカ海軍戦艦「ミズーリ」で行われた降伏調印式では,米マッカーサー元帥の親日的占領政策,国体護持を予期させるものがあった。

1945年8月15日1200,「ただいまより重大なる放送があります。全国の聴視者の皆様、ご起立願います」…「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、かしこきも御自ら、大詔をのたらませたもうことになりました。これより慎みて玉音をお送り申します」。国歌「君が代」につづいて「終戦ノ詔書」を天皇自ら読み上げた。国民にとって初めて聞く天皇の肉声,「玉音放送」である。

大東亜戦争終結ノ詔書

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ 万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ 朕ノ拳々措カサル所。 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ 亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ 朕カ志ニアラス
然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海将兵ノ勇戦 朕カ百僚有司ノ励精 朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ尽セルニ拘ラス 戦局必スシモ好転セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス。 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所 真ニ測ルヘカラサルニ至ル。

而モ尚交戦ヲ継続セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ 朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ。是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ。

朕ハ 帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ 遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス。帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ 職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者 及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内為ニ裂ク。且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ

惟フニ 今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス。爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル。然レトモ 朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス。

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ。若シ夫レ情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ 為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム。
宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ。爾臣民 其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ。
              御名御璽
             昭和二十年八月十四日

「東久邇日記」九月二日によれば,「重光代表は政府代表は近衛公がよいと申し出てきたが、私は考慮中だといって確かな返事をしなかった。梅津参謀長も大本営代表は、参謀総長と軍令部総長と二人でなければいけないと再三いって来たが、私は返事をしなかった。しまいに、梅津は、『もし参謀長一人を代表とする時には自決する覚悟である』とまでいって来たが、私はなおも返事をしなかった。梅津は私に直接交渉はしなかった。私は近衛、木戸、緒方三大臣と相談して、重光、梅津を代表とすることにし、天皇陛下のお許しを経て、終戦処理委員会で発表し、三十一日の閣議で決定してしまった。これが国政をあずかる最高責任者の態度というものであろうか。」

写真(右):1945年9月2日 アメリカ海軍戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上の日本降伏調印団:前列;外相重光葵Foreign Minister Mamoru Shigemitsu (wearing top hat),参謀総長梅津美治郎陸軍大将General Yoshijiro Umezu, Chief of the Army General Staff. 中列; 大本営陸軍参謀永井八津次陸軍少将Major General Yatsuji Nagai, Army; 終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男Katsuo Okazaki; 大本営海軍部(軍令部)第一部長富岡定俊海軍少Rear Admiral Tadatoshi Tomioka, Navy; 内閣情報部第三部長加瀬俊一Toshikazu Kase; 大本営陸軍部(参謀本部)第一部長宮崎周一陸軍中将Lieutenant General Suichi Miyakazi, Army. 後列(左から右に): 海軍省副官横山一郎海軍少将Rear Admiral Ichiro Yokoyama, Navy; 終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎Saburo Ota; 大本営海軍参謀柴勝男海軍大佐Captain Katsuo Shiba, Navy, 大本営陸軍参謀・東久邇宮総理大臣秘書官杉田一次陸軍大佐Colonel Kaziyi Sugita, Army. Naval Historical Center(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:ミズーリ号艦上の降伏調印式参照)

降伏文書調印にあたっての詔書:1945年9月2日降伏調印とともに交付された詔書「映像で見る占領期の日本」引用
朕は昭和二十年七月二十六日米英支各国政府の首班がポツダムに於て発し後にソ連邦が参加したる宣言の掲ぐる諸条項を受諾し、帝国政府及び大本営に対し連合国最高司令官が提示したる降伏文言に朕に代り署名し且連合国最高司令官の指示に基き陸海軍に対する一般命令を発すベきことを命じたり、
朕は朕が臣民に対し敵対行為を直に止め武器を措き且降伏文書の一切の条項並に帝国政府及び大本営の発する一般命令を誠実に履行せんことを命ず
               御名御璽

Japan Surrenders

降伏文書:1945年9月2日ミズリー号艦上の降伏調印式で調印された文書「映像で見る占領期の日本」引用
下名ハ茲二合衆國、中華民國及「グレート・ブリテン」國ノ政府ノ首班力千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ発シ後ニ「ソヴィエト」社会主義共和國聯邦力参加シタル宣言ノ條項ヲ日本国天皇、日本國政府及日本帝國大本営ノ命二依り且之二代り受諾ス右四國ハ以下之ヲ連合國卜称ス

下名ハ茲ニ日本帝國大本営並ニ何レノ位置二在ルヲ問ハス一切ノ日本國軍隊及日本國ノ支配下二在ル一切ノ軍隊ノ連合国二対スル無條件降伏ヲ布告ス

下名ハ茲ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ワス一切ノ日本國軍隊及日本國臣民二対シ敵対行為ヲ直二終止スルコト、一切ノ船舶、航空機並ニ軍用及非軍用財産ヲ保存シ之カ毀揖ヲ防止スルコト及連合國最高司令官又ハ其ノ指示二基キ日本國政府ノ諸機関ノ課スヘキ一切ノ要求二應スルコトヲ命ス

下名ハ茲ニ日本帝國大本営力何レノ位置ニ在ルヲ問ハス一切ノ日本國軍隊及日本國ノ支配下二在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ対シ自身及其ノ支配下二在ル一切ノ軍隊カ無條件二降伏スヘキ旨ノ命令ヲ直二發スルコトヲ命ス

下名ハ茲二一切ノ官 、陸軍及海軍ノ職員二対シ連合國最高司令官カ本降伏実施ノ為適当ナリト認メテ自ラ發シ又ハ其ノ委任二基キ發セシムル一切ノ布告、命令及指示ヲ遵守シ且之ヲ施行スルコトヲ命シ並ニ右職員カ連合國最高司令官ニ依リ又ハ其ノ委任二基キ特ニ任務ヲ解カレサル限リ各自ノ地位ニ留リ且引績キ各自ノ非戦闘的任務ヲ行ウコトヲ命ス

下名ハ茲ニ「ポツダム」宣言ノ條項ヲ誠実ニ履行スルコト並ニ右宣言ヲ実施スルタメ連合國最高司令官又ハ其ノ他特定ノ連合国代表者カ要求スルコトアルヘキ一切ノ命令ヲ發シ且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本國政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス

下名ハ茲ニ日本帝國政府及日本帝國大本営二対シ現ニ日本國ノ支配下二在ル一切ノ連合國俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト並ニ其ノ保護、手当、給養及指示セラレタル場所へノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ス

天皇及日本國政府ノ國家統治ノ権限ハ本降伏條項ヲ実施スル為適当卜認ムル措置ヲ執ル連合國最高司令官ノ制限ノ下二置カルルモノトス

千九百四十五年九月二日午前九時四分日本國東京湾上二於テ署名ス
大日本帝國天皇陛下及日本國政府ノ命ニ依リ且其ノ名二於テ
        重光 葵
日本帝國大本営ノ命ニ依リ且其ノ名二於テ
       梅津 美治郎

千九百四十五年九月二日午前九時八分日本國東京湾上二於テ合衆國、中華民國、連合王國及「ソヴィエト」社曾主義共和囲連邦ノ為ニ並ニ日本國ト戦争状態ニ在ル他ノ連合諸國家ノ利益ノ為ニ受諾ス

連合國最高司令官 ダグラス・マッカーサー,合衆國代表 シー・ダブリュー・ニミッツ,中華民國代表者 徐永昌,連合王國代表者 ブルース・フレーザ,「ソヴィエト」社会主義共和國連邦代表者 クズマ・エヌ・ヂレヴィヤンコ,「オーストラリア」連邦代表者 ティー・ユー・ブレーミー,「カナダ」代表者 エル・コスグレーブ,「フランス」國代表者 ジァック・ル・クレルク,「オランダ」國代表者 シェルフ・ヘルフリッヒ,「ニュージーランド」代表者 エス・エム・イシット

写真(右):1945年9月3日 アメリカ海軍戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上の連合軍最高司令官マッカーサー元帥(Douglas MacArthur)とサザーランド中将(Lieutenant General Richard K. Sutherland)が参謀総長梅津美治郎(うめづよしじろう)大将の降伏調印を見守る。:梅津美治郎(1882年1月4日 - 1949年1月8日)は,二・二六事件後に陸軍次官として陸軍内を粛正した。また,ノモンハン事件後、関東軍総司令官に就任し,関東軍の粛正にも関わった。終戦時の御前会議では本土決戦を主張し,降伏調印式への出席も最後まで拒んでいた。
English: Japanese Surrender at Tokyo Bay, 2 September 1945 General Umezu Yoshijiro signs the surrender on behalf of the Imperial Japanese Army on board USS MISSOURI in Tokyo Bay. Date 1945 A 30427 Imperial War Museums.
写真は、Wikimedia Commons, Category:Surrender of Japan, 2 September 1945 File:Japanese Surrender at Tokyo Bay, 2 September 1945 A30427.jpg引用。


現在の似非保守派には,「米国への従属はけしからん」「独自外交を展開すべきだ」「戦後日本の個人主義教育が人身の荒廃をもたらした」と主張する政治家・指導者が多い。しかし,終戦後の保守派(宮中グループ)の政治家・指導者たちは,従来まで戦っていた敵国の温情を受け,親米派を主流とし,マッカーサー元帥の恩恵を肌身に感じて,彼を個人的に尊敬した。まさに,日本人を殺害してきた敵に,媚をうり追従していると錯覚してしまうほどの耽溺である。彼ら保守派の大先輩(宮中グループ)こそが,自らの身の処し方こそが,米国への従属,親米の立場を選択したのであり,それが日本再建の道であると確信していた。決して,米国の占領政策を押し付けられたとか,マッカーサー司令官の下で強要されたものではなく,日本の似非保守は自らの企図,すなわち国体護持と日本再建を実現してくれる政府が占領軍総司令部であり,マッカーサー元帥だったのである。

保守派は,占領軍総司令部を利用して,国体護持と日本再建を図ったのである。このような米国従属を企図した親米保守派の政治的末裔が,反米,独自外交を唱えるのは,大先輩の深謀遠慮を理解できないかないがしろにする行為である。
いずれにせよ,今の日本を作った,今の親米,米国追従路線を選択したのは,宮中グループに代表される保守派である。その後に,大きな禍根を残したというのであれば,それは占領軍総司令部という外圧ではなく,新米保守は自らが引き起こした禍いであり,彼らがその責任を追うべきである。

写真(右):1945年9月2日,東京湾上アメリカ海軍戦艦「ミズーリ」で日本降伏調印(Formal Surrender of Japan)を宣言する連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥(General of the Army Douglas MacArthur):戦艦「ミズーリ」USS Missouri (BB-63)艦上で ,英国Admiral Sir Bruce Fraser; ソ連Lieutenant General Kuzma Derevyanko; 豪General Sir Thomas Blamey; 加Colonel Lawrence Moore Cosgrave; 仏General Jacques LeClerc; オランダAdmiral Conrad E.L. Helfrich; ニュージーランドAir Vice Marshall Leonard M. Isitt. 米国陸軍Lieutenant General Richard K. Sutherland; 中華民国General Hsu Yung-chang; 米海軍Fleet Admiral Chester W. Nimitz. 掲げられている星条旗はペリー提督 Commodore Matthew C. Perryが,1853年に東京湾に来航した時のもの。
English: Japanese Surrender at Tokyo Bay, 2 September 1945 General of the Army, Douglas MacArthur reads the surrender terms to the Japanese representatives on board USS MISSOURI in Tokyo Bay. Date 1945 A 30428 Imperial War Museums.
写真は、Wikimedia Commons, Category:Surrender of Japan, 2 September 1945 File:Japanese Surrender at Tokyo Bay, 2 September 1945 A30428.jpg引用。


1945年9月2日(日本3日)戦艦「ミズーリ」での降伏調印式におけるマッカーサー元帥の演説

MacArthur's Speeches: Surrender ceremony on the U.S.S. Missouri
降伏調印前
The issues, involving divergent ideals and ideologies, have been determined on the battlefields of the world and hence are not for our discussion or debate. (理想とイデオロギーを巻き込んだ問題は,戦場で片がついたのであり,もはや議論の余地は無い。)

It is my earnest hope, and indeed the hope of all mankind, that from this solemn occasion a better world shall emerge out of the blood and carnage of the past ---a world dedicated to the dignity of man and the fulfillment of his most cherished wish for freedom, tolerance and justice.(過去の流血と大量殺戮の後に,自由,寛容,正義を重んじる威厳ある人々の前に,よりよい世界が現れることを希望する。)

降伏調印署名後の演説

Today the guns are silent. A great tragedy has ended. A great victory has been won....(今日,銃声がやんだ。大いなる悲劇が終わり,偉大な勝利が勝ち取られた。) ----We must go forward to preserve in peace what we won in war.(我々は,戦争で勝ち取った平和を,将来まで,保持しなくてはならない。)

A new era is upon us. Even the lesson of victory itself brings with it profound concern, both for our future security and the survival of civilization. The destructiveness of the war potential, through progressive advances in scientific discovery, has in fact now reached a point which revises the traditional concepts of war.(勝利の教訓は,我々の今後の安全保障,文明の生存への強い関心を引き起こす。)

----We have had our last chance. If we do not now devise some greater and more equitable system, Armageddon will be at our door. The problem basically is theological and involves a spiritual recrudescence and improvement of human character (もしも,我々がより適切なシステムを構築できないのであれば,最終戦争ハルマゲドンはすぐやって来るであろう。問題は,基本的には,技術的ではあるが,同時に精神的再燃と人類の持つる性向の改善にも関連している。)

1945年9月3日(米国2日)の日本降伏調印式でのマッカーサー元帥の演説は,内容を吟味しても,日本の戦争責任,戦後処理,兵士の復員,政治体制,国体,占領政策の具体像は述べられていない。にもかかわらず,多くの日本政府首脳陣や軍高官に感銘を与えたようだが,これはひとつには,降伏調印式の演出と日本代表段への丁寧な応対にあった。そして,降伏調印式でのマッカーサー元帥の演説には,敵国日本とその軍隊への侮蔑的態度,政府首脳・大元帥昭和天皇への非難が無かったが,このことが,日本政府首脳陣や軍高官に,戦後日本の再建の期待を抱かせるものだったのである。

第二次大戦中の30回の連合国首脳会談に,チャーチル14回,ルーズベルト12回,スターリン 5回の出席で,軍人,外相の会談も多い。会談は,欧州戦と戦後の欧州・ドイツの取り扱いに関しての多く,枢軸国への無条件降伏の要求のように枢軸国を対象とした内容も,欧州優先の思想から言えば,ドイツを念頭においていたといえる。

大戦中の連合国首脳会議20回のうち,中国代表が率先して参加したのは,国連関連を除いて,1943年のカイロ会談1回だけで,日本と対日戦争が明示的に取り上げられた会談も5回に過ぎない。これは,対日戦争とアジアの問題については,米国主導で解決することが連合国の方針であったことを反映していると思われる。

連合国首脳会談で,日本の戦後処理が明示されていない以上,戦後日本の戦争責任や政治体制は,米国の意向を具体化する占領軍総司令官マッカーサー元帥にかかっていた。日本の指導者,特に宮中グループは,マッカーサー元帥の権威の大きさを熟知して,それに積極的に協力することによって,戦後日本の再建,国体護持に尽力したようだ。つまり,敗戦後の日本は,終戦の聖断前後から,親米(米国追随)外交を展開することを決めていた。
inserted by FC2 system


9.アジア太平洋戦争の戦争責任追及の場として,東京裁判(極東国際軍事裁判)で,A級戦犯だけが断罪され,国体が護持された。1951年サンフランシスコ講和条約では,占領国日本は東京裁判の判決を受容する(強要される)ことで,国体を護持しながら,賠償金をかけられることなく国際社会への復帰を認められ,独立国として再出発した。東京裁判の判決やあり方については,疑義があるが,A級戦犯刑死者は戦後,靖国神社へ合祀された。

終戦とともに,鈴木貫太郎内閣(1945年4月7日~8月17日)は総辞職したが,これは敗戦の責任を取ったということであろう。後を継いだ東久邇宮内閣(1945年8月17日~10月9日)は,初の皇族内閣である。それまでは戦争責任が皇族に及ぶのを避けていたが,終戦の成果は,聖断によってもたらされたのだとすれば,皇族内閣によって戦争終結を実現したいとの希望があったのであろう。終戦の二週間後,1945年8月28日,東久邇宮首相は閣議後の会見で「全国民総懺悔をすることが、わが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩であると信じる」と語った。これは,敗戦の責任は,国民にあるとも受け取れる見解であり,戦争指導者の戦争責任をあいまいにするものであった。一億総特攻から一億総懺悔へ,「君主は豹変す」である。下村定陸軍大臣も「(敗戦ではなく)終戦と称してほしい」と発言したという。 (→ザ20世紀 昭和20年 終戦(敗戦)参照)

昭和天皇弟宮高松宮宣仁親王,元首相近衛文麿,内大臣木戸幸一,元内大臣牧野伸顕,内閣総理大臣秘書官・高松宮御用掛細川護貞,内閣副書記官長高木惣吉,宮内省松平康昌,外務省加瀬俊一,宮内庁御用掛寺崎英成など日本の宮中グループは,米占領軍上層部と連携して,日本の復興,国体護持,大元帥昭和天皇の訴追排除に尽力した。

写真(右):1946年5月14日,東京、市ヶ谷、陸軍省・参謀本部があった建築物で開廷された極東軍事裁判(International Military Tribunal for the Far East)東京裁判:1937年6月に竣工した陸軍士官学校本部庁舎であり、1941年以降は、左側に陸軍省、右側に参謀本部が入った。自衛隊の市谷駐屯地に防衛庁が移転し,多くの建物が取り壊されたが、歴史的価値のある一号館の一部のみが記念館として移設保存された。東京裁判の法廷とされた大講堂と、旧陸軍大臣室が残されている。現在保存されている「市ヶ谷記念館」は,本来の建物の5分の一ほどしか残されていないので注意されたいが、この点を明示していないので、士官学校は矮小化されている。
English: Maj.Ben Bruce Blakenley,defense counsel,addresses the court at the International War Crimes Tribunal for the Far East Date 14 May 1946 Source mylib.nlc.cn Author The Occupation administration写真は Wikimedia Commons, Category:Surrender of Japan, 2 September 1945; File:IMTFE court chamber 2.jpg引用。


1946年、敗戦国日本で、捕虜虐待や住民殺害などの戦争犯罪だけではなく,「平和に対する罪」と「人道に対する罪」について,容疑者の公開裁判が行われた。戦勝国が一方的に「敵性人物」を処刑するのではなく、公開裁判に付したのは驚くべきことである。1946年の極東国際軍事裁判=東京裁判では、A級戦犯(戦争指導者として起訴)が裁かれた。

東京裁判には,日本軍が再び世界の平和・安全保障の脅威とならないようにするという目的と,占領した日本を,親米の国に変換するという二つの目的があった。連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) ダグラス・マッカーサーは、占領国日本の統治において大元帥昭和天皇の協力を不可欠と考えたために、国体を維持し,大元帥昭和天皇の訴追も退位も行わなかった。

戦後,宮中グループは,対米英太平洋戦争を否定して戦時中の日本の軍国主義者を指導層から排除すること,天皇の戦争責任から解放し,国体を護持することを企図し,その目的を達成するために,極東国際軍事裁判(東京裁判)の意義を認めた。そこで,宮中グループは,国際検察局に積極的に戦犯リスト情報を提供し協力関係を築こうとした。宮中グループは,天皇を擁護するためには,戦争責任を誰かが引き受けなくてはならず,それは東条英機などA級戦犯であると考えた。内大臣木戸幸一が提出した「木戸日記」は,A級戦犯の選定に寄与した。

 満州事変,日中戦争,対米英太平洋戦争は,陸軍強硬派が主導したように言われるが,それに同調した海軍はもちろん,宮中グループ,官僚,財閥も連座している。そして,最終判断を下した大元帥昭和天皇も無関係ではない。

しかし,東京裁判では,アジア太平洋戦争の責任は,主に陸軍上層部に押し付けられ,宮中グループは,大元帥昭和天皇の意思を踏まえて,和平を望んだが,経済封鎖された状況で,日本の内乱・革命を防ぐために,やむをえず対米英太平洋戦争に踏み切ったとの立場を堅持した。大元帥昭和天皇,宮中グループ,官僚,財界,そして,国民は,戦争犠牲者であって,戦争責任はない。戦争責任を負うべきなのは,A級戦犯であるという歴史認識を作り上げた。これは、戦勝国のみならず、敗戦国日本の日本人指導者の意図でもあった。

このような戦争責任論は,冷戦が激化する中,米英にとっても都合が良い。冷戦の開始によって,米国の占領政策は,非軍事化・民主化から反共化に移っていった。日本を親米国家にして,米国の同盟国に育成する戦略が採用された。この戦略を担うための日本側の政治勢力が,保守的な宮中グループであり,1948年10月に成立した吉田茂内閣だった。吉田茂は,内大臣牧野伸顕の娘婿で,新米保守の日本を方向付けた。(→極東軍事裁判参照)

写真(右):1948年1月7日、日本、東京裁判にA級戦犯として出廷した元内閣総理大臣東條英機(とうじょう ひでき 1884年7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年12月23日)陸軍大将:1940年第二次近衛文麿内閣で陸軍大臣,1941年内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣,1942年外務大臣を兼務。1943年文部大臣・商工大臣・軍需大臣も兼務。1944年参謀総長も兼務。サイパン陥落後、首相辞職。予備役に就く。戦後,拳銃自殺図るも失敗。 東條首相は,天皇親政を実りあるものにするために,頻繁に上奏を繰り返し,天皇の意思を汲み取りながら国政に尽くした。忠臣として,昭和天皇からも信頼されたからこそ,首相・陸相・内務大臣・外務大臣・参謀総長など兼ねる独裁が可能になった。東條英機大将は,大元帥昭和天皇に有無を言わさず日米開戦を認めさせたとの証言をしたが,これは天皇を訴追から守るための偽証だった。東京裁判では,開戦の全責任を引き受け,処刑された。このような,ディールは,マッカーサー元帥,フェラーズ准将など米軍上層部と日本の宮中グループの協力で可能になった。東京裁判の最大の意義は,国体護持を貫徹したことにある。これを抜きにして「東京裁判史観」を論じることはできない。
English: Tojo Hideki, an Army general and Japan s political and military leader, testified at the Tokyo War Crimes trial on January 7, 1948. (238-FEC-48-138) Date 7 January 1948 Source https://www.archives.gov/publications/prologue/2009/summer/cramer.html Author United States Army.
写真は Wikimedia Commons, Category: Hideki Tōjō File:Tojo testifying in Tokyo.jpg引用。


東條英機宣誓供述書 (東京裁判をぶっとばせ引用)には,アジア太平洋戦争が自衛戦争・植民地解放戦争であったこと,天皇に開戦の責任は無いことが述べられている。

「----当年国家の運命を商量較計するのが責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起つたという事がただ一つ残された途でありました。----「東亜開放」とは東亜の植民地ないし半植民地の状態にある各民族が他の民族国家と同様世界において対等の自由を獲んとする永年にわたる熱烈なる希望を充足し、以て東亜の安定を阻害しつつある不自然の状態を除かんとするものであります。
 第一の問題は---私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。

 第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず真心より進んでこれを負荷せんことを希望するものであります。

(1941年)11月5日決定の帝国国策遂行要綱に基く対米交渉遂に成立するに至らず帝国は米英国に対し開戦す」以上の手続により決定したる国策については、内閣および統帥部の輔弼および輔翼の責任者においてその全責任を負うべきものでありまして、天皇陛下に御責任はありませぬ。」 (東條英機宣誓供述書 ;東京裁判 東條英機 後編引用))

東京裁判における対米関係としては,大元帥昭和天皇の戦争責任を認めないという点が最も重要である。A級戦犯は,大元帥昭和天皇の免責のために犠牲的精神を発揮し(させられ),全ての責任を引き受けた(引き受けさせられた)。その意味で,東京裁判では,日本の再建と国体護持を願う宮中グループと米国における対ソ・反共産主義グループの協力が指摘できる。米英政府高官と米軍上層部は,国体を護持することが,米国の支配下で,日本の政治的安定と産業界・経済の復興に繋がると判断した。東京裁判を無効であると強弁する人たちは,大元帥昭和天皇を超A級戦争犯罪人として訴追し,処刑するつもりがあるのか。

日本のアジア太平洋戦争後の国際社会復帰は,1951年のサンフランシスコ講和会議と講和条約による。その中で,東京裁判(極東国際軍事裁判)の結果を完全に受諾したことを表明した。国体が護持された以上,日本政府は大満足であった。「東京裁判は無効だ」として,大元帥の戦争犯罪を問題にする政治家はいなかった。


写真(右):大元帥昭和天皇
;満州事変,日中戦争,太平洋戦争と昭和期の日本陸海軍の総司令官,統帥権の保持者として,戦争指導を行った。幼いときから一流の帝大教授,将軍に直接学び,帝王学を身につけた。満州事変以後,終戦までの間、参謀総長は5人、軍令部総長は6人、陸軍大臣は12人、海軍大臣は9人が擁立された。大戦争に通暁していたのは天皇ただお一人である。


1889年2月11日公布の大日本帝国憲法は,「皇朕レ謹ミ畏ミ 皇祖 皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ継承シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ」という告文で始まり,「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在 及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」「国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ」との憲法発布勅語が続いている。

天孫降臨の神勅を引き継いだ天皇は,神格化され,現人神(あらひとがみ)として統治を宣言した。
この重要なお言葉こそが,日本の基盤「国体」を表現している。条文の解釈よりも,このお言葉こそ,天皇中心の国体を表現している。

第一条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 」とし,第四条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とした。大臣,陸軍参謀総、海軍軍令部長らは,天皇の統治権・統帥権を補弼するにすぎない。天皇は,立法・司法・行政の三権を総攬し、大元帥として陸海軍の統帥権を持つ絶対的存在だった。

軍事について,天皇の権威は絶対である。第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」,第十二条「天皇ハ陸海空軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」,第十三条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」として,国軍の統帥権,軍の編成権,軍事予算の決定権を保持し,宣戦布告と講和の全権を握っていた。立憲君主制のような議会主義,国民主権,軍のシビリアンコントロールは,全く想定されていない。明治から敗戦までの天皇制は,絶対君主制である。天皇が与えた欽定明治憲法が国体・天皇の存在の根拠であるはずがない。皇祖神話が天皇制の基盤であり、誰からも掣肘されることのない天皇は、絶対権力を持つ(神聖にして侵すべからず)。当時の天皇制は,立憲君主制ではなく,「啓蒙絶対専制君主制」である。

しかし,第三条で,「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」として,天皇無答責を定めた。国内法によれば天皇に戦争責任は及ばないことになる。

東京裁判:東條英機と国体護持参照

戦争,特に民間人も動員される総力戦がもたらした惨状に向き合うことなく、自己の主張する大義を説いても,戦争の本質はつかめない。鳥飼研究室としては,戦争の大義,イデオロギー,国家戦略の前に,終戦の経緯や東京裁判の意義が誤解されたり,プロパガンダが展開されたりしたという事実を認識したい。そして,戦争が、大義やイデオロギーの当否,あるいは政治制度いかんにかかわらず、大量破壊、大量殺戮をもたらす戦争の終結が大元帥昭和天皇の聖断という形で示された帰結を冷静に把握したいと思う。


9. 1945年9月、ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)司令官の下、連合軍総司令部(GHQ)による日本占領統治・軍政が開始された。同時にアメリカは、中国、朝鮮半島、インド、ソビエト連邦、イギリス、東西ヨーロッパなど第二次世界大戦で戦禍に巻き込まれた地域をも視野に入れたグローバルな視点で、アメリカ・国際機関中心の平和な国際関係を、軍用ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター輸送機を使った国際コミュニケーションによって樹立しようとしていたことに注目すべきであろう。

敗戦国日本を占領統治したのは、1945年10月2日に設けられた、連合国軍最高司令官総司令部で、これは太平洋方面のアメリカ陸軍部隊を統括するアメリカ太平洋陸軍総司令部(GHQ/AFPAC)と併設して設置された。ここで、この連合国最高司令官(SCAP)は、ダグラス・マッカーサー陸軍元帥で、1951年4月11日の解任以降は、占領統治終了の1952年4月28日まで、マシュー・リッジウェイ陸軍中将が就任している。連合国軍最高司令官総司令部は、発足当初、SCAP下にある参謀長、副参謀長、参謀長直属の物資調達部(GPA)と参謀第1部(G1)から第4部(G4)までの参謀部、副参謀長の下に、天然資源局(NRS)・民間通信局(CCS)・経済科学局(ESS)・法務局(LS)・民政局(GS)・統計資料局(SRS)・民間諜報局(CIS)・民間情報教育局(CIE)・公衆衛生福祉局(PHW)の9個の幕僚部が設けられた。

その後、占領統治体制の中で、参謀長の官房と幕僚部の部局の変更が行われた。参謀長の官房部局には、国際検事局(IPS)・外交局(DS)・渉外局(PRS)、幕僚部の部局には、民間財産管理局(CPC)・高級服幹部(AG)・一般会計局(GAS)・民間運輸局(CTS)・賠償局(RS)・民事局(CAS)が新設された。特に、日本国憲法の制定に関わり、民主化を推進した民政局、財閥解体・労働改革など経済民主化を推進した経済科学局、地主解体・自作農創設のための農地改革を推進した天然資源局、教育の民主化を推進した民間情報教育局、公職追放・政治犯釈放を担当した民間諜報局など戦後日本の民主化に大きな役割を担った期間は重要である。

1945年の太平洋戦争・大東亜戦争敗北後に日本に軍政を敷いた連合国軍総司令部(GHQ)は、天皇軍国主義の支柱と見なした天皇制を弱体化する方針を決め、国庫による皇族支援を凍結した。また、天皇も含め、皇族の戦争責任が追及され、戦犯となる可能性もあった。そのため、皇族は処罰され、財産が奪われる可能性が高くなり、皇族の十一宮家は、すべて皇籍離脱で、特殊身分を放棄、一般人になることを選択した。この動きには、残される昭和天皇をはじめ、反対もあったが、天皇制維持、国体護持のために、皇族の安泰を優先するわけにはゆかず、最終的にはすべての宮家が皇籍離脱することになった。皇族の身分を離れ一般の戸籍を作り、国民の権利を持つことになったのである。賜姓降下、明治憲法では臣籍降下といった。

連合国軍最高司令官総司令部の人員構成は、1948年の最盛期、民政局・経済科学局・外交局など12部局に4739名、全体では文官3850名を含む6000名に達していたという。連合国軍最高司令官総司令部は、1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により、日本が独立したために廃止された。

写真(右):1945年9月27日、東京、連合軍総司令部に昭和天皇を呼出し、会見したGHQ司令官ダグラス・マッカーサー元帥:昭和天皇とマッカーサーの歴史的会見であるが、身長差が大きい、服装に軽重があるといった対比は、まさに勝者と敗者の格差である。この写真は、公開され日本人に衝撃を与えた。今まで現人神として挙げめていた天皇とはこれだ。He is the one.この写真を掲載し会談の模様の記者会見記事を掲載した9月29日の朝日新聞・毎日新聞・読売報知は、日本の内務省(まだ解体されてなかった)によって発禁処分にされた。これに対しGHQは、内務省による発禁処分を直ちに取り消させた。日本政府・官僚の国際感覚、民主主義への無理解は凄まじい。敏感な日本国民は、日本政府は信頼するに足らず、GHQこそ信頼できると判断し始めた。日本国民が洗脳されたからではなく、旧態依然たる日本政府・官僚が体たらくだったのである。
Emperor Hirohito pays a precedent shattering visit to Supreme Commander MacArthur
HST Keywords Hirohito; Japan - General file - Tokyo; MacArthur, Douglas - Ref. to
People Pictured MacArthur, Douglas, 1880-1964 ; Hirohito, Emperor of Japan, 1901-1989
Rights The Library is unaware of any copyright claims to this item; use at your own risk.
Description Emperor Hirohito, in formal morning attire, pays precedent shattering visit to Supreme Commander Douglas MacArthur at headquarters in Tokyo. From a Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters, U. S. Army Forces, Pacific, in Tokyo, Japan, July 1946. (These photographs have also been reproduced in 8x10 and placed in the regular photo boxes)..
Date(s) July 1946.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2014-3338 引用。


1945年9月27日、東京で行われた連合軍総司令部ダグラス・マッカーサーと敗戦国日本の昭和天皇との歴史的会談は東京駅近く、皇居・宮城の真向かいで、戦災を受けなかった第一相互ピルに置かれたGHQで開催されたが、GHQがここに設けられたのは、1945年9月20日で、会談一週間前だった。会談の内容は、日米両国政府によって公表されないまま現在に至っている。これは、両人の男の約束だなどという仁義がまことしやかに語られているが、秘密議定書に相当する重要な事項(戦争責任・領土問題・日米関係・日本の独立など)にかかわる基本方針が定まったと考えられる。会談には一人の通訳外務省参事官奥村勝蔵が付き従った。他方、1961年、藤田尚徳『侍従長の百想』(講談社)によって、秘密のはずの会談内容が公表され、「昭和天皇が、戦争の全責任を負うことを明言し、自分の一身はどうなってもよいから国民を救ってほしい」と訴えたという美談がのこっている。

降伏調印をしたばかりの東久遷宮内閣の外務大臣重光葵は、「皇室擁護」を当然のこととしながらも、開戦時の東條首相の大命、真珠湾攻撃などの具体的事象を踏まえ、天皇には「過去の指導者は全部積極、消極の意義に於て多少の責任を負担し、皇室及国民の責任なきを立証せんと決意」していた。「若し過去の指導者にして単に責を他に嫁し、自ら責を免れんことに汲々たるに於ては、国内は分裂し、感情は激化するに至るべく、若し夫れ、陛下御自身真珠湾攻撃に責なきことを公然言明せらるるに至=りば、国体[天皇制]の擁護は国内より崩壊をみるに至らんことを恐るるに至れり。蓋し軍部の玉砕派は降伏、終戦に対し、今日尚陛下の御聖断に対し内心平ならざるもの多きものあればなり」と判断していたのである。

つまり、昭和天皇がGHQマッカーサー司令官を自ら訪問するのは、戦争責任を免罪してもらう、日本占領に手心を加えてもらうための「娼態」とみなされるのであり、これは外務大臣重光だけではなく、は戦争に敗北し、無条件降伏をした日本の高級軍人、成否的指導者から国民にまで、明確に感じるところがあったのである。重光葵後任の外相吉田茂、侍従長[天皇補佐]藤田尚徳のような下僚がマッカーサーの下に挨拶に行って、そこで何を話し合っても、それほどの国際的重要性を持たない。こんな人物を世界は、国際世論は知らないからである。しかし、天皇Hirohitoは、ヒトラー、ムッソリーニと並び称される有名人であり、世界の人々が知っていた。

写真(右):1946年6月日、フィリピン、マニラ、フィリピン共和国マニュエル・ロハス大統領にフィリピン独立を祝福するGHQ司令官ダグラス・マッカーサー元帥:1944年10月のレイテ島上陸で、1942年に脱出したフィリピンに「帰ってきたと」と宣言し、フィリピン全土を日本軍の支配から解放したと自称できたマッカーサーは、満面の笑みを浮かべている。自分がフィリピンを日本の弾圧的支配から解放し、独立させてやったのだ、ということであろう。週に、マッカーサーの支援を当てにしてきたロハス大統領は、マッカーサーに媚態を示しているように見える。しかし、内心は誇り高く、正面切ってマッカーサーに反抗しなくとも、戦後のフィリピン人の対日協力に関しては、フィリピンの独自の意向、すなわち日本に協力したフィリピン人たちは、日本の抑圧や略奪を少しでも食い止めようとした消極的抵抗者だった、との立場をとった。旧態依然たる日本政府・官僚がマッカーサーに媚びたことを見れば、フィリピン政府の態度のほう真っ当だった。
General MacArthur greets President Manuel Roxas on his arrival in Manila for the Independence Ceremonies
Related Collection Robert E. Hannegan Papers
Keywords Armed forces officers ; Generals ; Presidents HST Keywords Philippines - Manila People Pictured MacArthur, Douglas, 1880-1964 ; Roxas, Manuel A., 1892-1948
General Douglas MacArthur (right) greets President Manuel Roxas of the Philippines on his arrival in Manila for the Independence Ceremonies. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946
Date(s) July 1946.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 98-2425 引用。


日本占領を担った連合国最高司令官総司令部(General Headquarters Supreme Commander for the Allied Powers, GHQ/SCAP)とは、日本のポツダム宣言受諾を受けて、1945年8月14日、アメリカ大統領ハリートルーマンは、アメリカ太平洋陸軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥を、連合軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers: SCAP)に任命した。そして、1945年9月2日調印の降伏文書に基づき、この連合国最高司令官が日本政府・日本軍を管理することとなり、1945年10月2日、ダグラス・マッカーサー元帥の布告した一般命令第一号によって、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が設置された。

写真(右):1949年10月11日、インド、飛行場で報道陣とアメリカ大統領ハリー・トルーマンを迎えて演説をするインド首相ジャワハルラール・ネルー(Nehru, Jawaharlal, 1889-1964):後方は、ダグラス(Douglas)DC-6を流用したVC-118 「インディペンデンス」 "The Independence" (シリアルナンバー:s/n 46-505)四発大統領専用機。
Prime Minister Nehru Addressing Reporters
Keywords Airports ; Journalists ; Presidential aircraft ; Presidents ; Prime ministers ; Speeches, addresses, etc. ; Visitors, Foreign ; Visits of state HST Keywords Airplanes - Independence; Truman - Dignitaries - Foreign - India People Pictured Nehru, Jawaharlal, 1889-1964 ; Truman, Harry S., 1884-1972
Description: Prime Minister Jawaharlal Nehru of India is addressing reporters after landing in Washington, D.C. for an official visit. President Harry S. Truman is to his right. The presidential plane "Independence" is in the background. Others are unidentified.
October 11, 1949
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 73-3163 引用。


イギリス植民地だったインドは、第二次大戦後、ヒンドゥー教徒のヒンドゥスタン、イスラム教徒のパキスタン、藩王国から成るインド連邦の独立構想が持ち上がったがイギリス人インド総督ルイス・マウントバッテンは、宗教・民族対立から、統一インドではなく、1947年6月4日、イギリス領インド帝国を「インド」と「パキスタン」に二分する分離独立を決めた。そして、1947年8月14日にパキスタン独立、8月15日にインド独立となり、パキスタン総督ジンナー、インド首相ジャワハルラール・ネルーが誕生した。

写真(右):1948年8月14日(アメリカ時間)、韓国、ソウル、大韓民国成立記念式典、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥と大韓民国初代大統領の李承晩(り しょうばん:イ・スンマン:이승만):キリスト教ミッションスクール培材学堂の在学中、韓国皇帝高宗の退位を要求、投獄されるも教団の力で特赦による出獄。1904年、渡米しし、1907年、ジョージ・ワシントン大学卒業、1908年、ハーバード大学で修士号取得。その後もアメリカで亡命生活を送り、1945年10月、日本降伏後に解放された朝鮮半島に帰国。朝鮮駐留アメリカ軍による軍政下、 1946年に大韓独立促進国民会の総裁に就任。1948年8月15日、大韓民国樹立に伴い初代大統領に就任。
Syngman Rhee and General Douglas MacArthur
HST Keywords Korea - Cities - Seoul People Pictured MacArthur, Douglas, 1880-1964 ; Rhee, Syngman, 1875-1965
Description Syngman Rhee (right), first President of Korea, sits beside General Douglas MacArthur, Supreme Allied Commander in Japan, as they attend the August 14, 1948 ceremony in Seoul inaugurating the new Republic of Korea. From: Pershing Touseley, Reorganized Church of Jesus Christ of Latter Day Saints.
Date(s) August 14, 1948.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2002-106 引用。


大韓民国初代大統領李承晩(イ・スンマン:이승만)は、キリスト教ミッションスクール培材学堂の在学中、韓国皇帝高宗の退位を要求、投獄されるも教団の力で特赦による出獄。1904年、渡米し、1907年、ジョージ・ワシントン大学卒業、1908年、ハーバード大学で修士号取得。その後もアメリカで亡命生活を送り、1945年10月、日本降伏後に解放された朝鮮半島に帰国。朝鮮駐留アメリカ軍による軍政下、1946年に大韓独立促進国民会の総裁に就任。

1948年8月15日、大韓民国樹立に伴い初代大統領に就任した李承晩大統領は、1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると即座にソウルを脱出し、プサンに避難した。その後、9月にマッカーサー率いる国連軍が仁川に上陸し、北朝鮮軍からソウルを奪還し、9月下旬にソウルに帰還することができた。

写真(右):1949年10月1日、中国、北京、天安門広場前で中華人民共和国の成立を宣言する共産党書記長毛沢東(Mao Zedong):毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した時期、実際には、中国各地で、国民党の抵抗が続いていた。これが、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が武力をもって対峙する国共内戦である。しかし、共産党の紅軍は、1949年11月30日に中華民国の首都重慶を攻略、その後蒋介石の国民党政府は台湾に逃亡した。国共内戦は、1950年6月には共産党の勝利で終わる。
Mao Zedong Makes Announcement
HST Keywords China - Peiping People Pictured Mao, Zedong, 1893-1976
People Pictured MacArthur, Douglas, 1880-1964 ; Hirohito, Emperor of Japan, 1901-1989
Mao Tse Tung (now called Mao Zedong) proclaims the People's Republic of China in Peking. From: Photos used in the 1984 Truman Centennial Exhibit.
Date(s) October 1, 1949.
5x7 inches (13x18 cm) , Black & White
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2013-3732 引用。


中国共産党書記長毛沢東は、中華民国蒋介石とともに日本に勝利したが、日本軍武装解除の最中に、両者の国共内戦が始まった。共産党側は、ソ連軍の支援、アメリカの不介入政策、国民党側の驕りと腐敗に助けられ、国民党一派を圧迫して、恭順した軍隊も傘下に組み込んだ。1949年10月1日、毛沢東は、北京の天安門壇上の上から、中国支配者の立ち振る舞いで、中華人民共和国の建国を宣言した。しかし、この時点では、未だに中国各地で、蒋介石率いる国民党(中華民国派)が武力抵抗をしており、国民党と共産党との国共内戦が続いていた。

しかし、共産党の紅軍は、1949年11月30日に中華民国の首都重慶を攻略した。そして、中国大陸で戦闘の不利を悟った国民党総統後蒋介石は、中華民国の軍隊を引き連れて、台湾に逃亡した。そのため、中国大陸に残存していた国民党軍は、随時降伏するか、あるいはインドシナ方面に亡命するかし、国共内戦は、1950年6月、毛沢東率いる共産党の完全勝利、中国と統一で幕を閉じた。

写真(右):1949年 、ソビエト連邦、モスクワ、儀仗兵を閲兵する北朝鮮の労働党書記長金日成(キム・イルソン)指導者と外務大臣アンドレイ・グロムイコ:1912年4月15日生まれの金日成(キム・イルソン:きん・にっせい:김일성)は、1930年代から1945年まで、共産主義を報じる革命闘士だったが、1940年には、日本軍の掃討作戦に耐えきれず、ソ連に亡命している。1950年6月25日、ソ連と中国の支援を受けて、大韓民国を攻撃し、朝鮮半島を起こした。
Andrei Gromyko and North Korean Premier Il Song
People Pictured Gromyko, Andrei Andreevich, 1909- ; Kim Il-song, 1912-1994
Description: Andrei Gromyko (in dark military cap) was delegated to guide Kim Il Song (hatless, at left, of official party reviewing troops), the North Korean Premier, during Kim's visit to Moscow. From: Photos used in the 1984 Truman Centennial Exhibit. Library of Congress Photo Number: LC-USZ62-80619.
Date(s) 1949
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2013-3703 引用。


金日成(キム・イルソン:きん・にっせい:김일성)は、1930年代に中国共産党員として反日武装闘争に参加した。しかし、1940年には、日本軍の掃討作戦に耐えきれず、ソ連に亡命し、ソ連赤軍の傘下に入るとともに、コミンテルン式のイデオロギー教育、スパイ訓練を受けたようだ。1945年8月、日本の降伏によって、ソ連赤軍が北緯38度線以北の朝鮮半島を占領すると、金日成は9月19日に、ウラジ₌オストークから、ソ連艦で北朝鮮東岸の元山港に上陸し、共産党員として指導的役割を与えられた。1946年、金日成は、成立した北朝鮮労働党の指導者となり、1950年6月25日、ソ連と中国の援助を受けた先制奇襲攻撃によって、朝鮮半島の統一を目指し、朝鮮戦争を起こした。

写真(右):1950年9月15日(アメリカ時間)、朝鮮半島仁川(インチョン)沖、揚陸指揮艦「マウント・マッキンリー」(排水量1万2000t)艦橋上の連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)元帥:大韓民国(韓国)ソウル西20キロの仁川(インチョン)河口へ「クロマイト作戦」(Operation Chromite)に従って、アメリカ軍を中核とする国連軍が上陸し、北朝鮮軍に大反攻を開始した。この写真は、アメリカ第7艦隊旗艦オレゴン級重巡洋艦3番艦「ロチェスター」(USS Rochester, CA-124)ではない。
General Douglas MacArthur and members of his staff during Korean War
Keywords Armed forces officers ; Generals ; Korean War, 1950-1953 ; Ships HST Keywords Korean War - General File People Pictured MacArthur, Douglas, 1880-1964 ; Whitney, Courtney ; Almond, Edward M. (Edward Mallory), 1892-1979 ; Wright, Edwin K. (Edwin Kennedy), 1898-1983
General Douglas MacArthur (seated) Commander in Chief, United Nations forces in Korea, and members of his staff view pre-landing bombardment and air strikes from the flag bridge of the U.S.S. Mt. McKinley in Korean waters off Inchon, as United Nations forces begin their offensive in that section. Left to right: Brigadier General Courtney Whitney, Chief, Government Section GHQ Scap; General MacArthur; Brigadier General E. K. Wright, Assistant Chief of Staff, G-3 Section, GHQ FEC; and Major General Edward M. Almond, CG X Corps.
Date(s) September 15, 1950.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2007-448引用。


アメリカ大統領トルーマンは、1950年6月28日の午後、朝鮮戦争でソウルが陥落した時期、「平和建設の大事業を守る楯」となるような韓国に対する援助を実施すると表明した。この時には、僅かではあったが、アメリカ空軍機がソウル周辺の北朝鮮軍への地上襲撃を始めていた。その後、フランス、カナダ、フィリピン、米州機構もアメリカの措置を即座に支持し、大使はトルーマンを称賛した。

1950年7月、国際連合安全保障理事会で国連軍が設置され、ダグラス・マッカーサー元帥が国連軍司令官に就任した。これに伴って、李承晩(Syngman Rhee)の下にあった韓国軍の指揮権も国連軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥に譲渡された。1950年9月15日、マッカーサー司令官は仁川海岸に大規模な国連軍を上陸させ、反攻を開始した。 1950年9月15日(アメリカ時間)、朝鮮半島仁川(インチョン)沖、ソウル西20キロの仁川(インチョン)河口に、アメリカ軍を中核とする国連軍が、「クロマイト作戦」(Operation Chromite)に従って、上陸し、北朝鮮軍を北に押し返した。2週間で国連軍はソウルを奪還し、北朝鮮軍を38度線以北に追い出した。9月29日、李承晩はソウルに帰還した。

朝鮮、中国の新政権の成立を、多くの国民が解放と平和の裡に祝いたかったであろうが、1950年の朝鮮戦争に至って、大きな惨禍がもたらされることになり、日本は、対照的に、戦後復興を進める足掛かりを得る。経済復興に伴って、昭和天皇に対する戦争責任の問題は、影が薄くなった。


写真・ポスターに見るナチス宣伝術 ◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,日中戦争も詳述しました。ここでは,日露戦争,スペイン内戦,国際テロ戦争のほか第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
 
Top Pageへ戻る
2007年2月14日公開の当鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。

連絡先: torikai@tokai-u.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 
東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程
鳥飼 行博 TORIKAI Yukihiro
HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka
Kanagawa,Japan259-1292
東海大への行き方| Tel: 0463-50-2122, Fax: 0463-50-2078
東海大への行き方|How to go
◆鳥飼研究室のご訪問ありがとうございます。論文,写真を引用・掲載の際はURLなど出所論文,データ,写真等を引用する際は,URLなど出所を明記してください。ご意見,ご質問をお寄せ下さる時には,ご氏名,ご所属,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。
◎メール: torikai@tokai-u.jpが最良の連絡方法です。
Flag Counter
Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 8000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer.


Copyright © Torikai Yukihiro, Japan. 2006/2020 All Rights Reserved.